事実であっても真実とは違う印象 戦争中の台風報道と終戦の年の冷夏
気象報道管制
昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争が終わりました。
太平洋戦争を振り返る時、「太平洋戦争中の気象報道管制で住民に気象情報が全く伝わらなかったため被害が拡大した」といわれますので、多くの人がそう思っています。
事実として、真珠湾攻撃が行われた昭和16年12月8日の午前8時、中央気象台の藤原咲平台長は、陸軍大臣と海軍大臣から口頭をもって、気象報道管制実施を命令されています(文書では12月8日の午後6時、表1)。
こうして、気象情報のやりとり(気象無線通報)は暗号化され、新聞やラジオ等による国民への天気予報などの発表が中止となっています。
しかし、真実は、防災上の見地から気象報道管制中でも、例外として台風接近等による暴風警報の発表は、特令によって実施されることになっており、全てが禁止されたわけではありません(表2)。
この特令暴風警報は、戦争遂行に必要な情報でもある天気予報を国民に知らせないが、大災害をもたらす台風などの時には、「原因を言わず、危ないということだけを国民に知らせる」というものでした。
「太平洋戦争中に気象情報を国民に伝えていた」ということは、図書館で過去の新聞記事を検索するとすぐに分かります。
太平洋戦争の期間(昭和16年(1941年)12月8日から昭和20年(1945年)8月15日)と、「暴風警報」など天気予報に関連したキーワードをいくつか入力すると、当時の新聞記事がでてきます。
特例暴風警報は、具体的な気象情報の発表ではなかったために、効果はあまりなく、太平洋戦争を生き残った人々は、自分は戦争中に気象情報を聞かなかった(聞く機会がなかった)という事実から、「気象情報は全くなかった」と発言し、それが広まってゆきました。
特別の時だけに発表する情報は機能しない
特令による暴風警報の発表が正式に決まったのは、昭和17年(1942年)8月27日で、周防灘台風によって西日本で大きな被害がでている最中でした(図1)。
8月27日の21時ころに山口県に一番接近し、163センチメートルの津波が満潮時刻におきています。
このため、この台風を周防灘台風と呼ぶことがあります。
周防灘沿岸は干拓地が多く、海岸低地に工業都市が発達していたこと、これまで災害に見舞われた経験が少なく防災設備が不備だったこと、気象報道管制下であったために、台風についての情報が住民にほとんど伝わらなかったことが高潮被害を拡大させた原因として指摘されています。
このころの戦局というと、6月5日のミッドウェー海戦の敗北に続いて、8月7日にアメリカ軍のガダルカナル島上陸がありました。
太平洋戦争の開戦以来の日本軍の破竹の快進撃は止まり、米軍の本格的攻撃が始まりつつありました。
特令暴風警報の実施は、9月1日からでしたが、これを先どる形で、ラジオ放送が行われ、新聞でも報道されたのですが、天気予報が全くない中での短い情報です。
国民は、この突然発表された情報の意味が分からず、どう行動すれば良いのかも分からなかったというのが実情ではないかと思います。
太平洋戦争中は気象報道管制によって、気象情報が国民に全く伝えられなかったというのは誤解ですが、制約が多い中での中途半端な伝達であったため効果がほとんどなく、全く伝えられなかったと同様の状況でした。
台風情報は進路や強度なので誤差を伴いますが、具体的な状況が分かっていれば、「台風の進行速度が予想より遅くなっているのでは」とか、「台風が予想より発達しているのでは」など、台風情報の誤差を補うこともできます。
第一、避難しようというはっきりした動機付けになります。
太平洋戦争中の特例による暴風警報が機能しなかったように、重大な災害時のときだけ特別なことをするという計画は、往々にしてうまく機能しません。
災害時にうまく機能するのは、普段行っていることを増強して行うという計画です。
日頃から目にしている天気予報で、台風の発生と移動を早い段階から知り、台風が接近してきたら台風情報に注意するという下地があって、各種の警報で行動を起こして災害を防ぐ(特に人的被害を防ぐ)ことができます。
内閣府の「避難情報に関するガイドライン」では、住民は「自らの命は自らが守る」意識を持ち、自らの判断で避難行動をとるとの方針が示され、この方針に沿って自治体や気象庁等から発表される防災情報を用いて住民がとるべき行動を直感的に理解しやすくなるよう、5段階の警戒レベルを明記して防災情報が提供されることとなっています(図2)。
その意味では、日々の天気予報も防災情報の一つです。
また、警戒レベル1(災害への心構えを高める)情報である早期注意情報(警報級の可能性)も重要な防災情報です。
早期注意情報(警報級の可能性)は、警報級の現象が5日先までに予想されているときには、その可能性を「高」、「中」の2段階で発表しているものです。
早期注意情報(警報級の可能性)で、「高」または「中」が発表されたら警戒レベル1です。
警戒レベル5の「緊急安全確保」という強い言葉で警戒が呼びかけられる大雨特別警報や氾濫発生情報の時になって行動を起こそうとするのは、太平洋戦争中の「特例による暴風警報」に似ており、機能しないと思われます。
終戦記念日の晴天と昭和20年の冷害・食料不足
終戦の日である昭和20年(1945年)8月15日は、ドラマ等で暑い日として描かれていますので、昭和20年は暑い夏というイメージがあります。
昭和20年(1945年)8月15日は、西日本を中心に太平洋高気圧に覆われ、安定した気圧配置となり、東京の最高気温が32.3度など、東日本から西日本ではドラマ等に描かれているように、暑い日となっていますので、これは事実です(図3)。
しかし、北日本の8月15日は、ドラマ等で描かれるような暑い日ではありません。
昭和20年(1945年)8月15日は東京の暑い日、というのは事実ですが、それから派生して、昭和20年が日本全国全て暑い夏であったという話は真実ではありません。
表3は各地の夏の気温です。
表3では、月平均気温が平年を上回っているのは、8月の東京だけというように、昭和20年(1945年)は全国的に暑くはない夏というのが真実です。
稲作は稲の生育状況に適した気温があります。生育期に気温が平年より低いと、未成熟のまま収穫期を迎えることになって収穫量が落ちます。また、出穂前後に平年より気温が低いと、その後気温が平年を上回っても、一穂当たりの粒数が減少して収穫量が減ります。
昭和20年の夏は、ほぼ全国で、夏の期間のほぼ全般にわたって平年より気温が低くなっています。このため、北海道の作況指教が42であるなど、北陸から北海道にかけて深刻な冷害被害がでています。
加えて、昭和20年(1945年)は、冷害被害がでなかった西日本でも、9月に枕崎台風、10月に阿久根台風の大きな被害を受けたため、日本中が極端な食糧難に陥っています。
もし、終戦が遅れた場合は、冷夏や自然災害により、多量の餓死者が発生し、戦争遂行どころではなくなったと考えられる昭和20年(1945年)です。
戦争に負けた結果、アメリカから多量の食料(アメリカでは家畜の飼料としていたもの)が届いたことで、日本人は飢餓状況に陥らずにすんだのです。
また、家畜の飼料であったとしても、アメリカが半年前まで戦っていた国の国民へ食料援助した事実も忘れてはならないと思います。
図1、表1、表2の出典:饒村曜(昭和61年(1986年))、台風物語、日本気象協会。
図2の出典:気象庁ホームページ。
図3の出典:デジタル台風(国立情報学研究所)
表3の出典:気象庁資料より筆者作成。