関白就任を拒否した藤原道長。なぜ三条天皇と確執が生じたのか?
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、関白就任を拒否した藤原道長の姿と三条天皇との確執が描かれていた。なぜ、2人の関係はあまり良くなかったのか、考えることにしよう。
寛弘8年(1011)、三条天皇が36歳で即位した。三条天皇の母は、道長のきょうだいの超子だった。道長にとって、三条天皇とは深い関係があるものの、決して歓迎できる話ではなかったようだ。
亡くなった一条天皇は幼い頃に即位したので、兼家(道長の父)が摂政として支えた。言葉は悪いが、コントロールしやすかったのである。しかし、三条天皇は壮年になって即位し、これまで朝廷の様子をつぶさに観察したこともあり、自分の意志を実行しようと思っていたと考えられる。
三条天皇の父は、奇行が目立つとされた冷泉天皇であり、晩年は体調が優れなかった。不幸にも目の病気に罹り、それゆえに精神的な安定を欠いたのか、たびたび不適切な言動をするようになったという。
三条天皇は何度か道長に対して、関白になるよう要請したが、その度ごとに道長は就任を辞退した。三条天皇が道長に関白就任を打診したのは、安定した政権運営を行いたかったからだろう。
道長が三条天皇の要請を固辞し、内覧の座にとどまった理由は必ずしも明確ではない。ただし、道長が関白に就任した場合、三条天皇の治世が長期化する可能性があった。それでは困るのである。
道長は一刻も早く、娘の彰子の子の敦成親王(のちの後一条天皇)を即位させ、そのもとで権勢を振るおうと考えたのだろう。互いの考え方が異なっていたので、両者の確執は決定的なものになった。
長和元年(1012)、三条天皇は道長の娘の妍子を中宮としたが、一方で娍子(藤原済時の娘)を皇后とした。道長は娍子の立后を妨害したので、儀式に参列したのはわずかな数の公卿に過ぎなかった。
三条天皇が娍子を皇后としたのは、第一皇子の敦明親王の母だったからだろう。三条天皇と妍子との間には、後継者たる男子が誕生しなかったので、ますます道長との関係が疎遠になったと考えられる。
その後、三条天皇は失明した状態になり、道長から譲位を勧められ、泣く泣く後一条天皇にその座を譲った。せめて子の敦明親王を皇太子にと思ったが、それは道長によって妨害されたのである。