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映画『ドライブ・マイ・カー』吹き替え版の大問題と、「言葉の壁」、「沈黙の壁」

木村浩嗣在スペイン・ジャーナリスト
スペインでは吹き替えが普通。日本映画には「言葉の壁」がある

公開から2週間、最終日に慌てて見に行った。去年のサン・セバスティアン映画祭でも見たが、2回見ないと書けない作品もある。『ドライブ・マイ・カー』もその一つだ。

前回がオリジナルバージョンで今回がスペイン語吹き替え版(吹き替え版しか上映がなかった)だったが、その印象の違いに驚いた。

なんたって全員がスペイン語をしゃべっているのだ!

これは作品の根幹にかかわる大問題ではないだろうか?

■全員がスペイン語話者なら「壁」はない

言葉で通じるもの、言葉では通じないもの、言葉でないと通じないもの、言葉でないから通じるもの、というのは、この作品の重大なテーマだと思う。

多国語演劇のシーンでは日本語、中国語、韓国語、手話など、様々な言語を使う演者が出てくる。彼らはお互いの言語をまったくわからないか、限定的にしかわからない設定になっている。

私もオリジナルバージョンを見た時には、日本語以外の言語は「音」として聞き「絵」として見つつ、字幕を追っていた。

が、スペイン語吹き替え版では全員がスペイン語をしゃべっているか、理解できる。つまり、役者の間にはスペイン語という共通言語があり、「言葉の壁」というのは存在しないのだ。

2人が共通の言語を持たないからこそ、意思が通じ合う瞬間が感動的なのだが
2人が共通の言語を持たないからこそ、意思が通じ合う瞬間が感動的なのだが

互いが言葉でコミュニケーションできるのなら、セリフを棒読みさせるとか、セリフが終わったら机をトンと叩いて合図するとかの、言葉が通じないことが前提の演出法は不要だし、言葉がわからなくとも意思が通じる、という感動も湧かない。

あと、「1週間後」とか「2年後」とかのテロップのスペイン語字幕はなかった、と思う。

■吹き替えで失うものがある、のは当然だが

これで本当にスペイン人たちにお話は理解され、心に響いたのだろうか?

吹き替え版はオリジナルバージョンに比べて、伝え切れないものがある、こぼれる情報がある、というのは当然だ。

例えば『シン・ゴジラ』のテロップの膨大な情報量は、吹き替えではフォローし切れず、字幕版でも追い切れない。結局、日本語が理解できないと完全には伝わらない。ただ、部隊の名前とか兵器の名前とか会議の名前とかの固有名詞がとんでも大勢に影響はない。

また、『ターミネーター2』でターミネーターはメキシコ国境付近で「アスタ・ラ・ビスタ・ベイビー」というスペイン語(俗語)の挨拶を学ぶ設定なのだが、最初からスペイン語ペラペラの彼が学ぶ、というのは不自然なので、吹き替え版の決め台詞は「さよなら、ベイビー」に変更されていたが、これも大勢には影響しない。

沈黙と無表情で心が通い合う、というのも異国では理解されにくい
沈黙と無表情で心が通い合う、というのも異国では理解されにくい

が、『ドライブ・マイ・カー』の吹き替え版は“大勢に影響する”。

オリジナルバージョンで上映してくれればいいのだが、吹き替えが当たり前のこの国では、それでは「字幕は面倒」という一般のお客さんの足を遠ざけてしまう。

まあ、各映画賞の審査員はオリジナルバージョンを見てくれているはずなので、その点は安心なのだが。

※以下、少しネタバレがあります。

■不倫を目撃した時の反応は次のどれ?

さて、この作品で「言葉でなくても伝わるものがある」というのと同じくらい大事なのが、「沈黙では伝わらない」ではないか。

妻または夫の不倫現場を目撃したとする。あなたはどう反応しますか?

※子供がいない設定なので「子供のために我慢する」はなし。あくまで自分本位の回答で。

1.怒って責め立てる。相手の返答によっては離婚も視野に入れる(雄弁)

2.関係を壊すのが怖いので黙っている(沈黙)

3.関係を壊すのが怖いので平静を装うとするが、態度や表情に出てしまう(雄弁な沈黙)

セックスは大事だが、セックスでないことも大事。若者の勢いと熟年のうんちく
セックスは大事だが、セックスでないことも大事。若者の勢いと熟年のうんちく

これ、私は多分1だ。

感情的にはこうなる自分を一番想像しやすい。

3の可能性もないでもない。

自分が幸せならその幸せな彼女との時間を守るために、自分が我慢すれば良い、という発想になるかもしれない。が、自分の性格からしてやり切れないだろう。考えていること、思っていることが顔や態度に出てしまうから。冷たく当たったり、酷く落ち込んだりして、結局、1と同じことをしてしまうに違いない。

■不倫に対して沈黙、無反応で臨む意味

2が一番、ない。

本当に凄く愛していて幸せなら、もの凄い自制力で、いつものようにニコニコ笑って優しく寛大な夫、幸せな夫婦を演じ続けられるのかもしれない。しかし、もしかすると内面はもの凄く不幸かもしれず、いずれ、“俺が不幸なのに何のために幸せを演じるのか?”と自問自答する時が来て、終了である。

多分、関係の中で「公平」とか「不公平」とかの価値観を持ち込んでしまう自分のような人間は、2を選べない。選べるのは献身的な聖人か、逆に、コミュニケーションが不要なほど自律的な人間だろう。

スペイン人にとっては2は理解不能で、3は理解可能、1は一番彼ららしい反応ではないか。

主人公は孤独だが、自分が選んだ孤独、という面も。残酷だけど
主人公は孤独だが、自分が選んだ孤独、という面も。残酷だけど

いずれにせよ、ここで取り上げた不倫なんてのは、作品が提供する様々なテーマの中のごく一部に過ぎない。いろいろ考えさせてくれるので、まずは見て、感じ、考えてほしい。

※2月下旬に書いたものですが、一部ネタバレがあったので公開を延期していました。内容は執筆時のままです。

※写真提供はサン・セバスティアン映画祭。

在スペイン・ジャーナリスト

編集者、コピーライターを経て94年からスペインへ。98年、99年と同国サッカー連盟のコーチライセンスを取得し少年チームを指導。2006年に帰国し『footballista フットボリスタ』編集長に就任。08年からスペイン・セビージャに拠点を移し特派員兼編集長に。15年7月編集長を辞しスペインサッカーを追いつつ、セビージャ市王者となった少年チームを率いる。サラマンカ大学映像コミュニケーション学部に聴講生として5年間在籍。趣味は映画(スペイン映画数百本鑑賞済み)、踊り(セビジャーナス)、おしゃべり、料理を通して人と深くつき合うこと。スペインのシッチェス映画祭とサン・セバスティアン映画祭を毎年取材

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