【ルポ熊本地震】突然破壊された日常 孤独感、喪失感から「酒に手が」
熊本地震から1年3カ月が経った。熊本市内を中心に、被災地では地震の痕跡が減り、街はにぎわいを見せる。一方で、被災者向けに自治体が民間賃貸住宅を借り上げる「みなし仮設」や仮設住宅では、今も4万人を超える人々が暮らす。突然破壊された日常をいかにして取り戻すか――。みなし仮設に住むある男性は、熊本地震後、喪失感や孤独感に襲われながらも、人とのつながりを支えに前に進もうとしている。
「ついつい酒に手が伸びてしまう」
作業が始まった瞬間、目つきが変わった。小さなピンセットを器用に操り、紙のパーツを、一つ一つ手際よく接着させていく。どのパーツも、繊細で、弱々しい。何かのはずみで折れてしまいそうだ。見ているこちらは、無意識に息を止めてしまう。
作業がひと段落したところで、何を作っているのか尋ねると、はにかみながら「熊本城」と教えてくれた。
現在、熊本市東区のみなし仮設で一人暮らしをする石井光廣さん(58)は、精巧なペーパークラフトが趣味であり、生きがいでもある。作業中は、頭から不安が消える。作業していない時はーー。
「ついつい酒に手が伸びてしまう」
石井さんは、そうつぶやくと、床に転がる容量4リットルのウイスキーのペットボトルに目をやり、ため息をついた。
益城町で暮らしていた石井さん
石井さんは、熊本県内の工業高校を卒業後、印刷会社に就職。その後いくつかの職を経て、15年前に、現在も働く工場の設備保全の仕事に就いた。住居は、熊本県益城町(ましきまち)惣領(そうりょう)のアパート。これまでに県内の多くの土地に住んできたが、最も居心地がよかったのが、益城だった。
地震前、石井さんは、職場と家を往復する日々だった。仕事が終わるとすぐに職場を出て、アパートに帰宅。酒と手作りの肴(さかな)で一日の疲れを癒やした。時には、近所にある行きつけのスナックへ足を運び、カラオケを楽しんだ。しかしながら、心にぽっかり空いた穴が埋まることはなかった。
石井さんは約5年前、離婚した。しばらくの間は、別れた妻が、当時小学2年と保育園の娘2人をアパートに連れて来ていた。しかし、数カ月が過ぎ、アパートに来ることはなくなった。娘が幼いころに書いてくれた手紙。部屋に忘れていったヘアゴム。「宝物」は、今も大切に保管してある。
子供に会えない寂しさを紛らせてくれたのが、アパートの隣の部屋に住んでいた、一人暮らしのおばあさんだった。下の名は知らない。「モリシマさん」と名字で呼んでいた。
「モリシマさん」は、家庭菜園が趣味だった。収穫のたび、おすそ分けをくれた。石井さんは、断線した電化製品用のコードを修理してあげた。顔を合わせた時の、何気ない会話、そして何気ないお互いの気遣い。「モリシマさん」との交流が、生活に潤いを与えてくれていた。
2度の激震がすべてを奪った
2016年4月14日午後9時26分。震度7の揺れが益城町を襲った。石井さんは、アパートの駐車場に避難。その日は余震におびえながら車中泊をした。翌15日、家具などが散乱した自宅をきれいに片付け、夜は車の中で過ごした。
16日午前1時25分。本震発生。地震直後、石井さんはアパートの中に逃げ遅れた人がいないか、確認した。幸い、誰もいないようだった。ただ、2度の激震に、子供との思い出がたっぷり詰まったアパートは、耐えられなかった。
石井さんは避難所で過ごした後、今も住む、みなし仮設への入居を決めた。そこから、精神的に不安定な状態が続いた。アパートの前を通るトラックの音に、毎回体が反応した。なんでもないようなことにイライラしたかと思えば、被災地支援を伝えるテレビ番組に涙が止まらない。自らをコントロールできなくなっていた。
ある日、気がついた。以前のアパートに住み続けることが、自分の支えになっていたのだと。いつか子供が訪ねてくるかもしれない。どこかそんな期待を抱きながら、暮らしていた。しかし、今のアパートの場所を、子供たちは知らない。
ここは石井さんにとって、初めて住む地域。近所に知り合いは一人もいない。もちろん「モリシマさん」もいない。石井さんは喪失感を覚えていた。
以前からアルコールの摂取量は、多い方ではあった。それが、さらに増えていった。アルコールは、石井さんの体を徐々にむしばんでいった。
期限のあるみなし仮設「この先どうなってしまうのか」
取材を進めるうちに、私は石井さんと時々連絡を取るようになった。一見、無骨なのだが、実は人懐っこい。なんだか放っておけない性格なのだ。
今年6月のある休日、こちらから連絡すると、なかなか返事がない。心配になったころ、携帯電話のメール着信音が鳴った。開封すると、「久しぶり! 今日する事無くて、昼間から呑んで寝てた……」(原文ママ)と書かれていた。私は返信があったことに安堵(あんど)するとともに、石井さんの今後が気になった。
現在、石井さんは、医師の指導を受けながら、アルコールの量をコントロールしようと試みている。一時期よりは減ったものの、今も摂取量が多い。まず350ミリリットルの缶ビールを1本。焼酎100~150ミリリットルはお湯で割って。ウイスキー300ミリリットルはロックで。これが毎日だ。4リットルのウイスキーのペットボトルが、2週間ほどでなくなる。
ーーなぜお酒を飲むんですか?
「家におっても、することないけんね」
ーーペーパークラフトの作業中も飲んでる?
「うんにゃ、作業中は飲まんけど、ずっと作業しとるわけじゃないし」
ーーお酒をやめる予定は?
「いつかは、やめなんとだろうけど(やめなきゃいけないんだろうけど)……。家におるとやっぱり飲むもんね」
石井さんは最近、将来への不安を強く感じるようになった。みなし仮設の居住期間は、原則2年間。県が政府に延長を要請しているものの、いずれにせよ早いうちに次の住まいを探さねばならない。
石井さんが希望するのは、益城町内の災害公営住宅(復興住宅)。一刻も早く益城に戻りたいと思っている。しかし、災害公営住宅の建設場所は、地区までは絞り込んでいるものの、具体的な場所がまだ固まっていない。時期について、益城町は、早いもので2018年12月、すべての災害公営住宅について、2019年度までに整備を完了する見通しを示している。
「完成までしばらく時間がかかるし、具体的な場所も分からない。早く益城で落ち着いた生活を送りたい」
支援団体「よか隊ネット」との出会い
益城町内で、みなし仮設への訪問活動を続けている支援団体「よか隊ネット熊本」(熊本市東区)。同団体相談員の高木総史さん(49)は、石井さんと初めて会った時のことを、鮮明に覚えている。
同団体では訪問後、支援の緊急度に応じて、世帯をA~Eに分類している。例えばAは「差し迫った危険、危機的状況があり、行政職員及び専門機関による緊急の介入、支援が必要な世帯」、Bは「Aほど差し迫った状況はないが、困難な課題に直面しており、中心となる支援者がおらず孤立しているなど、行政職員を中心とした継続的な支援が必要な世帯」などと、分類基準が定められている。
石井さんは、AとBの中間を指す「B’」(ビーダッシュ)だった。
高木さんが石井さん宅を初めて訪問したのは、昨年11月上旬のことだった。すでに別の相談員が訪問しており、「B’」であることは把握していた。少し緊張して呼び鈴を鳴らしたが、会ってみて拍子抜けした。とにかく気さくな男なのだ。しかも、礼儀正しさも持ち合わせている。
ふと、デニムパンツの太もも部分を見た。明らかに緩い。
高木さんは熊本地震前、生活困窮者らの支援にあたっていた。その中の何人かは、アルコールに依存して食事の量が減り、日を追うごとに体重が落ちていった。その時の経験が思い起こされた。「介入が必要だ」。それを裏付けるように、血液検査では、肝臓の値が極めて悪かった。
石井さんへのヒアリングを進めると、アパートを失ったことによるショックが大きいことが分かった。娘との思い出を失った喪失感、そして孤独感。「全壊したアパートから取り出せなかったから」と、布団すらないありさまだった。「まずは関係性の構築からだ」と思った。
会話を重ねるうちに、石井さんの意外な趣味を知った。それがペーパークラフトだった。日光東照宮にサグラダファミリア。立派な作品の数々を見て、「これが糸口になるかもしれない」とぼんやり考えていた。
最初の交流イベントは大失敗
昨年12月18日、益城町の広安西小学校。みなし仮設や自宅で避難生活を続ける人を対象にした交流イベント「つながる広場」が、初めて開かれた。被災者同士のつながり形成、コミュニティー形成が目的の同イベントは、「よか隊」が企画。案内状を送付した約1,300世帯から、370人以上が参加した。高木さんは、「孤立が解消されるのではないか」との期待感から、石井さんも招待した。
結果は、大失敗。参加者の多くが、一人暮らし世帯だった。しかし、当時の同団体は、彼らの橋渡しをするノウハウを持ち合わせていなかった。石井さんも、特に誰とも会話することなく、帰っていった。後日、感想を尋ねると、「誰とも話せなかったので、余計に寂しくなった」と口にした。
「場を提供するだけでは難しい。参加者同士をつなぐ『潤滑油』が必要だ」。頭を悩ませていた高木さんは、ある時ひらめいた。「そうだ、ペーパークラフトだ」
今年4月2日に開かれた2回目の「つながる広場」。会場内には、運営側として汗を流す石井さんの姿があった。石井さん渾身のペーパークラフト作品が並べられ、みなし仮設に住む子供たちへのワークショップも、石井さん自ら実施した。石井さんは、時折笑顔を見せながら、来場者と交流。終始、充実した表情を見せた。高木さんは手応えを感じた。
地震によって顕在化した社会課題
石井さんのように、みなし仮設で暮らす人たちに、どういった支援が必要なのか。「よか隊」の高木さんは、「みなし仮設で孤独を感じている人は非常に多い。まず孤立を防ぐことが大切」と指摘する。
みなし仮設の場合、これまで住んでいた地域のコミュニティーから離れることになる。かといって、新たに町内会に入るケースは、極めて少ない。加えて、仮設住宅とは異なり、一戸一戸が広い範囲に点在している。結果、支援の手が届かず、孤立してしまう。
県内では、仮設住宅やみなし仮設での孤独死が相次いでいる。仮設住宅の場合、団地となっているため、お互いに声をかけあうなどの対策が取れる。しかし、みなし仮設の場合、支援団体などによる訪問頻度を増やすことは難しく、人海戦術には限界がある。「孤立は命に関わる問題」と、高木さんは危機感を強めている。
みなし仮設の孤立を防ぐための施策として、「よか隊」は先述の「つながる広場」を企画した。今月は、各地域のみなし仮設で暮らす人々が「主体的に」運営する交流イベント、「つながるカフェ」の初開催を予定している。
誰もが、何かしらの「強み」と「弱み」を持っている。それを補完し合うことで、「お互いさま」という気持ちが生まれる。「困っています」と声を上げやすい雰囲気ができる。高木さんたちは、こうした状態を目指している。
「アルコールへの依存や地域における孤立など、これらはもともと存在した社会課題。これまで見えなかったものが、熊本地震によって顕在化した。ただそれだけの話です。世の中には困っている人がたくさんいます。私たちはこれまで社会課題から目を背けてきた。普段からもっと意識して目を向ける必要があるのです」
社会課題から目を背けてきたーー。高木さんの言葉が、胸に刺さる。
復興は長期戦、「つながり」が支えに
今月1日、私は熊本市内から益城町へ向けて車を走らせていた。助手席には石井さんが座る。
1週間ほど前、「モリシマさん」こと守嶋速子さん(91)を取材した。現在、益城町内の仮設住宅で暮らす守嶋さんは、地震が起きるまで、石井さんの隣の部屋で一人暮らしをしていた。礼儀正しく、必ずあいさつをしてくれる石井さんを、信頼していた。一人暮らしは不安なので、災害公営住宅でも、石井さんと隣同士になりたいと思っている。石井さんに守嶋さんの思いを伝えたところ、「来週あたり会いにいこうか」と応じ、一緒に会いに行くことになったのだ。
私たちが室内に入るやいなや、守嶋さんは「エアコンのリモコンの使い方がよう分からんけん、ちょっと教えてくれんね」と石井さんを頼った。石井さんは「こぎゃんすっとよ」(こうするんだよ)と言いながら、やさしく教えた。「授業」を聴き終えた守嶋さんは、石井さんに尋ねた。
「石井さん、益城の災害公営住宅には入るとね」
「うん、入るつもりよ」
「地区は?」
「まだはっきりとは決めとらん」
「いつ完成するとかな?」
「早いもので2018年12月らしかけど、いつになるか分からんよ」
「そぎゃんね……。まだ時間がかかりそうね」
肩を落とす守嶋さん。数秒間の沈黙が部屋を覆う。すると石井さんは「お隣さん同士」だったころの思い出話を始めた。守嶋さんの表情に、明るさが戻った。
「また来るけん」。およそ1時間滞在した後、石井さんの言葉で、この日はお開きとなった。私たちは、再び車に乗り込んだ。
帰路、石井さんは、饒舌(じょうぜつ)だった。「守嶋さん、元気そうだったなあ。実は今度プレゼントしようと思って、ペーパークラフトば作りよるったいね」。守嶋さん絶対喜びますよ、と私が言うと、石井さんはうれしそうに笑った。
先の見えない被災者らの暮らし。将来への不安は尽きない。自治体は、全力で復興に取り組んでいるが、被災者はただ待つことしかできない。そんな中、以前の「つながり」、そして新しい「つながり」が、被災者にとって、支えとなっている。
破壊された暮らしの再建は、まだ道半ば。復興は長期戦だ。もうすぐ、熊本地震から2回目の夏が、やってくる。
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