韓国初の『歴史用語辞典』に'日本による植民地支配'や、そこからの'解放'はどう書かれているか
●歴史辞典の決定版
日本社会が'終戦'に向き合う8月がやってきた。
韓国で8月15日は『光復節』と呼ばれ、1945年同日に日本による植民地支配が終わったことと、1948年同日の韓国政府樹立を祝う、5つしかない国慶日のうちの一つとなっている。
8月15日を二週間後に控えた今日、筆者の元に分厚い本が届いた。『歴史用語辞典』(ソウル大学校出版文化院)だ。2015年にソウル大学歴史研究所により編まれたもので「欲しい欲しい」と言っていたら、とある身近な方がプレゼントしてくれたのだった。
さっそく小一時間ばかり眺めてみたが、楽しさがこみ上げてきた。ふと同書を収めた箱を見ると「わが国最初の歴史用語辞典」と書かれている。韓国初ということだ。
キャッチコピーをさらに引用してみると「300余名の専門執筆陣で構成、2000余ページの膨大な分量、1500余個の標題語を集大成した」とある。自信のほどが窺える。
サイズはB5に近く、厚さは8センチ。手に取ると5キロくらいはあるだろうか。文字通り「歴史の重み」を感じる出来だ。
内容も幅広い。韓国史はもちろん、東洋史や西洋史も幅広くカバーしている。用語の重要度により長さが三段階に分かれており、「民主主義」「近代国家」といった最も重要な45の用語はそれぞれ二万字近いボリュームで丁寧に説明してある。
巻末には韓国史・東洋史・西洋史を同時代に並べた年表の他に、朝鮮半島・中国・インド・中央アジア・西南アジア・ヨーロッパなどの王朝と王の名前が表で整理されているなど盛りだくさんだ。
さらに項目ごとに執筆者の名前(編集部となっているものもある)や、国内外の参考図書も列挙されており、さらなる知識を得たい読者にとって丁寧な構成になっている。
発刊から8年が経ったが、まさに唯一無二の辞典と言えるだろう。こんな興奮は高校生の時にお年玉で買った『クロニック世界史』(樺山紘一編、講談社、1994)以来かもしれない。
それではいったい、8月に考えずにはいられない日本による朝鮮半島の植民地支配について、この辞典にはどう書かれているのだろうか。
以下に「日帝強占期」と「解放」という二つの項目の記述を翻訳したものを掲載する。
ちなみに辞典は15万ウォン(約1万6500円)だ。たった二つの項目の紹介ではあるが、読んでみて損は無いだろう。
●日帝強占期(일제강점기、1440ページ)
1910年8月の国権喪失以降、1945年8月15日の光復に至るまで、日帝の植民統治時期を指す言葉だ。
この時期を指称する別の表現として、倭政時代、日政時代、日帝時代、日帝時期、植民時期、植民地時代、日帝植民地時期、日本植民地時代、日本統治時代、日帝暗黒期、大日本戦争期、対日抗争期、抗日運動期、国権被奪期など多様な異称がある。
比較的多く使われた用語を中心に見ると、倭政、日帝、植民地などの単語に強占期、時代、時期などを付けて作られている。
解放以後、学問的にこの時期を指称する用語を見ると、学界ではまず倭政という用語を使っていない。本格的にこの時期に対する研究が進んだ1970年代以降、日帝時代や植民地時代などの用語が主に使われた。
しかしこれに対し「時代」という用語を使うことが不適切だという指摘があった。歴史学において時代とは、時間を歴史的に区分した特定の期間を意味すると同時に、その社会の全体を表現する総体でもある。それぞれの社会が特定の期間に持つ個別的な特質を世界史の普遍性と共に統一的に認識し、その発展論理を理論化しようとする努力の所産が、すなわち時代の区分である。
したがって「時代」の代わりに「時期」という用語を使わなければならないという認識が共有された。また、日帝時代や植民地時代には侵略の強制性が表れないという指摘も提起された。
結局、日本帝国主義の侵略性と強制性、そして不法性を表現しようとする問題意識から出てきたのが「日帝強占期」だ。
韓・日間の条約締結過程で強制性と不法性が争点化しながら、「強占」という表現はいっそう自然に受け止められた。「乙巳条約」を「乙巳勒約」と呼んだり「韓日合邦」を「庚戌国恥」と呼ぶなど、この時期の別の用語に対する再検討も同じ脈絡から出てきたと見ることができる。
しかし現在にも多様な名称が使われており、今なお研究者の間に統一された用語が定立されている状況とはいえない。
一方で「日帝下」という表現も多く使われているものの、時期に対する名称と見るのは難しい。(編集部)
●解放(해방、1868ページ)
1945年8月15日に韓国が日帝の植民統治を抜け出し自主独立を取り戻したことを指称する。光復または独立という用語を使うこともある。
植民地時期に団体の名称に使われた用例を見ると、まず光復を使った団体の中で、過去の体制を復元しようという復辟主義を志向したものはなかった。
また、光復という用語を使った団体がすべて民族主義運動の系列ということではなかった。例を挙げると、1936年に結成された在満朝鮮人祖国光復会は社会主義者たちが主導した抗日民族統一戦線組織だった。
ただ、社会主義運動の系列の組織が、解放という単語が入った組織の名称を使ったことが多かったということだけは明らかだ。参考として、3・1運動以後、民族運動勢力が民族主義運動と社会主義運動に分化してから、民族主義運動系列の組織の名称の中に解放という用語を使ったものは無い。
南・北韓にそれぞれの政府が樹立されるまで、すべて「解放」を使用した。1946年8月15日に南と北ではそれぞれ「解放節」の記念式を行い、1948年8月15日の「解放節」に「解放3周年記念式」が行われ大韓民国政府が樹立したと報じた記事もあった。
大韓民国で解放節が光復節に変わったのは、1949年10月に政府が4大国慶日を制定した時からだ。しかし学校の教育過程では1970年代までも「解放」という用語が主に使われた。維新体制下の第3次教育課程の時に国定国史教科書では現代史の一つ目の単元を「民族の解放と国土の分断」という題目で始めていた。
教科書において「解放」という言葉の代わりに「光復」という用語が完全に定着したのは1982年の第4次教育課程の時からだった。当時、高校の国史の教科書で「大韓民国の成立」を説明する一つ目の小項目が「民族の光復」だったが、これは既存の「民族の解放」から変わったものだった。
「光復」という言葉は文字通り「光を取り戻す」という意味であるが、韓国人たちにとってそれは日帝により国を奪われ植民地統治を受けた状態は暗黒であるという認識に対し対峙する観念として通じてきた。
したがって光復は国を取り戻しみずからを治める国家がある本来の状態に戻ってくることを意味する。しかし双方とも歴史用語としては不完全さを持っている。(編集部)