【幕末こぼれ話】女で失敗して身を滅ぼした新選組隊士とは?
勝海舟が「氷川清話」のなかで、こんなことを言っている。
「若いときのやりそこないは、たいがい色欲からくる」
確かにそのとおりかもしれない。海舟も晩年の回想録だから達観して語っているが、彼自身、若い頃には大変な女好きとして知られていた。
幕末の京都で活躍した新選組も、例外ではない。女で失敗して、文字どおり身を滅ぼした若い隊士が何人もいたのである。
町家の妻女と密通した隊士たち
慶応元年(1865)6月21日、2人の若い隊士が隊規を犯したとして切腹させられた。名は施山多喜人、石川三郎という。
彼らの罪は、なんと「町家の婦人と密通した」というものだった。密通とは、「肉体関係をもつことが許されない男女が、密かに関係すること」という意味だ。
つまり施山と石川の2人は、町の人妻と不倫におよび、罪に問われたのである。幕末の京都の治安維持につとめる新選組隊士としては、大変情けない罪状といわざるをえない。
相手の女性は、1人なのか2人なのか詳細が伝わっていないのだが、もし1人だったとしたらどのような状況だったのだろうか。
一つ付け加えておくと、施山と石川の2人は、2か月前に江戸での募集に応じて上洛し、新選組に入隊したばかりの者だった。おそらくは2人とも、もともと武士ではなく百姓か町人であっただろう。
それが、新選組に入隊したことで武士として扱われ、京の都で大きな顔をして威張っていられる。そんな境遇が、彼らを浮かれさせてしまったに違いない。隊士として何の実績も残さず、ただ不名誉な最期だけが、こんにち伝えられることになったのである。
愛人の間男に斬られた隊士
ほかにも、こんな間抜けな隊士がいた。新選組隊士は屯所で合宿生活を送ることになっていたが、幹部だけは京都市中に休息所と称する家を持つことができ、そこに女性を住まわすことが許された。
ところが田内知(たうちとも)という者は平隊士であるにもかかわらず、京都のはずれの八条村に女性を密かに妾として囲っていた。それだけならば、バレずにすんだ可能性もあったが、女が田内だけではあきたらず、水戸藩士某と二股をかけていたことで事態は悪化した。
慶応3年(1867)1月10日――。この日、女が油断して水戸藩士と酒を飲んでいると、そこに田内が突然やってきた。間男は急いで押し入れのなかに隠れたが、部屋には2人分の酒肴が出ていたので、「この酒肴は誰のために用意したものか」と田内は女に詰問した。
女がしどろもどろになっていると、間男は「もはやこれまで」と押し入れの戸を開け、持っていた刀で田内に斬りつけた。田内は肩に一撃と両足をなぎ払われ、そのすきに間男は女の手をとって裏口から飛び出し、どこへともなく逃亡してしまった。
残された田内は、動けなかったため大声を出して近隣の者を呼び、新選組屯所に事態を知らせる。やがて屯所から数人の隊士が駆けつけ、田内を駕籠に乗せて連れ帰ったが、事情を聞いた局長の近藤勇は激怒した。
即座に「士道不覚悟」と言い放ち、田内に切腹を申し渡したのである。平隊士の身で妾を囲っていただけでも問題なのに、あろうことか間男に斬られて無様な醜態をさらすとは、近藤としては情けなくて顔も見たくない思いだったに違いない。
若いときのやりそこないは、たいがい色欲からくる――は、真実であったようだ。