鎌倉幕府の初期を支えた「鎌倉殿の13人」、そのうちの11人は頼朝の親戚だった
来年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。
主人公は鎌倉幕府初期を支えた北条義時、北条時政、比企能員、安達盛長、和田義盛、梶原景時、三浦義澄、大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、足立遠元、八田知家の13人の重臣である。
この13人、北条時政・義時父子の他は全員名字が違い、系図を見てもそれぞれ別の家系の出身である。しかし、実はそのほとんどが頼朝とは女系を通じた縁戚関係だった。
頼朝は平氏政権下で父親をはじめ一族の多くが殺され、生き残った兄弟(範頼・義経)も自ら粛清したため直接の一族は少ない。しかし、縁戚関係を通じて有能な人物を集め、側近として採用していった。
北条政子の縁戚
それでは、まず頼朝の妻北条政子の一族からみてみよう。北条時政は政子の父で、時政の援助がなければそもそも旗揚げすることはできなかった。そして、その嫡男が義時で頼朝にとっては義弟にあたる。
政子の異母弟時房は武蔵武士足立遠元の娘を正室に迎えた。従って、遠元は頼朝にとって妻の弟の義父である。
頼朝は政子と結ばれる前に伊豆伊東の武士伊東祐親の娘八重姫と通じ、一子を設けたとされる。13人の一人三浦義澄も伊東祐親の娘を妻としていることから、頼朝とは義兄弟の関係。そして三浦義澄の甥が相模国和田に住んで「和田」を名字とした和田義盛である。
また、和田義盛の側室は武蔵七党の一つ横山党の横山時重の娘。13人の中でもとくに大きな力を持っていた梶原景時の母も横山党の出で、義盛の妻は梶原景時のいとこにあたる。
頼朝の乳母の人脈
頼朝の乳母は比企尼という。貴人では複数の乳母がいることも珍しくなかった。なかでも比企尼は20年にわたって不遇の頼朝を援助し続けたことで知られる。
比企氏は武蔵国比企郡(埼玉県)を本拠とした武士。藤原姓というだけでその出自ははっきりしないが、比企尼の縁で鎌倉幕府草創期に大きな力を持っていた。この比企尼の甥で尼の養子となったのが13人の一人比企能員。そして、比企尼の長女丹後内侍の夫が安達盛長である。
また、三善康信も母が頼朝の乳母の妹であるといい、八田知家も頼朝の乳母寒川尼の弟であるなど、頼朝の乳母の縁者が4人入っている。当時の乳母は家族と同様で、この4人も縁戚とみなすことができる。
頼朝の母由良御前は、尾張の熱田神宮の神官をつとめた熱田大宮司家の出である。二階堂行政は朝廷の下級官僚だったが、由良御前の大叔母の子にあたることから、その縁を通じて京から鎌倉に下向して幕府の創設に参画した。
残り2人は幼なじみ
こうしてみると、13人のうち実に11人は頼朝となんらかの縁戚関係にあり、この政権が人脈で成り立っていることがわかる。13人のうち頼朝と縁戚関係にないのは、中原親能と大江広元の2人しかいない。しかしこの2人、名字は違うが実は兄弟で大江広元はもとは中原広元を名乗っていた。そして、兄の中原親能が頼朝の幼なじみとされる。
「鎌倉殿の13人」とは、頼朝の11人の親戚と2人の幼なじみ兄弟であった。