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自民党と統一教会 韓国からの証言① 教祖は言った「また選挙を助けてほしいと頼まれた」

(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

自由民主党と統一教会の関係性。

政教分離原則に反するのか、はたまた政党が献金被害による反社会性のある団体と交流している点が問題なのか。あるいはその点について日本の政治家がしらばっくれた態度を見せている点が問題なのか。

そういった点はさておき。

ここでは両者の関係性について、この点を徹底的に。

「韓国側からどういった証言が出ているのか」

なにせ数え切れないほどの話が存在するのだ。

※韓国では教団の名称変更後も「統一教」として報じられているため、本稿でも「統一教会」と記します。

数え切れない数の「自民党」言及

メディア報道などの2次資料を探るまでもない。

統一教会側の公式刊行物のなかに「自民党(자민당/チャミンダン)」という言葉は本当に多く出てくる。

教団関連の関連資料を電子書籍でも発売する「鮮鶴歴史編算苑」で検索すると「53」の書籍がヒットする。一つの書籍のなかでも複数の言及があるから言及数はこれより遥かに多い。このほかにPDFで閲覧できる「語録集」での言及数はもう数え切れないほどだ。

鮮鶴歴史編算苑サイトよりキャプチャ。訳は筆者による
鮮鶴歴史編算苑サイトよりキャプチャ。訳は筆者による

教団側の立場からすると、自民党との関係はなんらやましくはない。そう感じさせるデータだ。

これらのなかには初代教祖の文鮮明氏が「今後の日本の今後の総理を誰にさせるのかという問題も、私が今議論しています」(「神様の摂理で見た南北統一」1997年12月)といった、かなり強気で抽象的とも取れる発言も多い。

いっぽうでしっかりと日付や人数、人名など固有名詞を記した言及もある。ここでは莫大な量の言及から、筆者が「比較的具体的がある」と判断したもののうち第一弾を紹介する。

自民党総裁が車をよこし、教団の日本会長を招待

まずは1974年、第2次田中角栄政権から三木武夫内閣への移行期にあった日本での話だ。

(1974年の参院選で自民党は地方選挙区の)42議席が28議席に減るだろうという予想を覆し、勝共連合が加担したことにより43席に逆転した。選挙史上に残る奇跡だった。選挙後、自民党総裁が車を使わせて久保木修己会長を招待し、幹部全員の前で統一教会を紹介するということが行われた。自民党と統一教会は、カインとアベル(旧約聖書『創世記』第4章に登場する兄弟)の関係だが、カイン(兄)がアベル(弟)を訪ねてお連れする立場になったのだ。

「主要儀式と宣言式 1」より

文中の「勝共連合」および「久保木修己(おさみ)会長」について補足説明を。後者は統一教会および、教団系の反共主義政治団体国際勝共連合初代会長。慶大卒。1998年没、享年67歳。

  • 世界平和統一家庭連合公式チャンネルより

勝共連合とは、統一教会が組織した反共団体。当時の流れはこういったものだった。

1954年  韓国で教団設立

1958年  日本進出

1964年1月 韓国で勝共連合設立

1964年4月 日本で勝共連合設立 

(1965年6月 日韓国交樹立)  

教団側には「北朝鮮の脅威を防ぐためには日本と力を合わせなければならない」という大義があり、当時、選挙運動などでの実働部隊が不足していた自民党右派側は「忠誠心の高い組織」を必要とした、される。

参考記事(筆者による):「統一教会と日本」そもそも論 韓国の教団はなぜ日本を好み、どう自民党に食い込んだのか?

上記原稿から、いま一度「統一教会員の忠誠度の高さ」の文脈を引用しよう。

(1960年代に)日本では、勝共講義をできる(人材を)理論武装をさせ、そして街頭に送りました。共産党がうようよといる場所に送ったのです。そして(朝鮮総連系の)朝鮮大学前にも。大胆な性格の女性を理論武装させ『おまえはこれから3年半ずっと死ぬ覚悟で朝鮮大学の前で勝共講義をやらないといけない! 銃に撃たれて死んだり、トラックに轢かれたりするなど、おまえが行く道に死は間違いなく存在する。それでも行け!』と命令したのです。逸話が多いです。本当に逸話が多いですね。そうこうしているうちに、朝鮮大学は日本の外務省を使って我々に圧力をかけてこようとしました。しかし私たちは絶え間なく命をかけて闘争してきました。そうしながら、街頭や東京駅、全国の有名な街頭で共産党と積極的な闘争を繰り広げたのです

韓国内の統一教会支部がYouTubeチャンネルより。文鮮明氏、韓鶴子氏の歩みを記した「人生路程」という本を朗読するコンテンツがある。同著109巻231ページより。

  • 1970年には「世界反共連盟」の日本大会が開催された。統一教会系公式チャンネルより

岸信介氏が「自分の前で感動した姿を見せた」

続いて安倍晋三氏の祖父、岸信介氏が登場する文脈を。同じく、1974年の出来事だ。教団関連の書籍「永遠の私の祖国を探して」より。

(選挙後)岸首相が出てくるや、彼らをぎゅっと掴んで『あなたが教えた弟子(当選議員)たちがこうなり、愛する秘書室の首班たちにこんな日がくるなんて』と涙を流して話したのです。大韓民国(の国民たちは)はこの時、(こんなことが起きているとは)夢にも見ていませんでした。そんな時にも岸首相は感動をした姿を見せていました。そしてその時、彼の弟である佐藤(栄作氏)や自民党の一派である福田と繫がることができました。彼らは今、私と親しいです。

岸首相とは(それまで)一度も会っていませんでしたが、日本の帝国ホテルでの晩餐会を行った際には実行委員長を務めてくれました。悪名高い文某が全日本の有志2000名を呼んで公演する場で実行委員長として座り、自分の…(334ページ)

上記と同じく1974年の7月7日の参院選での結果を受けてのこと思われる。「晩餐会」とは1974年5月7日に行われた「希望の日晩餐会」のことだ。

参考文献(FLASH):福田赳夫元総理「アジアの偉大な指導者・文鮮明」スピーチ動画が拡散…改めて問われる自民党と統一教会の深い関係

教団側が自民党への選挙協力の条件とした4か条

統一教会側の公式書籍によると「自民党への選挙教育」は1980年6月22日の衆院選にも続く。「神の摂理から見る南北統一」では、1980年11月の記述としてこういった内容が記されている。

今回も自民党から自分たちを推してほしいという要請が入ってきました。 (文鮮明氏は)「これまで日本の国会で共産党が勝共連合を無くすためにあらゆる手段を動員してきたときには、一言もくれなかった。しかし今度はあなたたちが不利になったと助けてくれというのか」と話しながら、「私達の助けを得ようとするのなら4つの条件を受け入れるようにしろ」と久保木協会長に指示しました(1980年11月1日)

その条件とは何だったのか。書籍にはこう記されている。

1つ目の条件は国際勝共連合の理念で共産党と闘争することを宣誓することであり、2つ目は統一教会のすべての思想体系を1週間、修練過程を通じて学ばなければならないということでした。3つ目はすべての選挙区を私たちの活動基地とするように言いました。それから『あなたたちは久保木(日本での教団代表)の味方であることを宣誓するように』と言いました。結局、彼らはこの4つの条件を聞き入れ、私たち側が選挙運動をしたのですが、その結果(関わりのあった)立候補者99人のうち88人が当選したのです。今は日本の政治風土において、いち宗教指導者であるということだけで、政治的には無名な久保木会長がこうして日本の政治方向を左右できる境地にまで達しました。そうして今はこの文某(鮮明氏)が一言言えば、一日にも数億もの金を稼げる基盤までを磨き上げたのです(1980年11月1日)

あくまで韓国の教団側からの証言だ。幾多の言葉のうち、具体性が高いと思われるものをいくつか選んだ。量が多く、教団書籍の体系も複雑で解析が間に合わない、というのが実のところだ。鋭意解析し、追って紹介したい。

吉崎エイジーニョ ニュースコラム&ノンフィクション。専門は「朝鮮半島地域研究」。よって時事問題からK-POP、スポーツまで幅広く書きます。大阪外大(現阪大外国語学部)地域文化学科朝鮮語専攻卒。20代より日韓両国の媒体で「日韓サッカーニュースコラム」を執筆。「どのジャンルよりも正面衝突する日韓関係」を見てきました。サッカー専門のつもりが人生ままならず。ペンネームはそのままでやっています。本名英治。「Yahoo! 個人」月間MVAを2度受賞。北九州市小倉北区出身。仕事ご依頼はXのDMまでお願いいたします。

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