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「黒船襲来」から2年、マイアミで目撃した元ヤクルト・ホーナーの知られざる“最期”

菊田康彦フリーランスライター
ヤクルト在籍時に球場で販売されていたホーナーのサイン色紙(筆者所有)

 今から33年前の今日、1987年5月6日──。日本中の野球ファンの間に大きな衝撃が走った。ヤクルト(現東京ヤクルト)スワローズに入団したボブ・ホーナーが、神宮球場で行われた阪神タイガース戦で、四球を挟んで3本のアーチを立て続けに放ったのである。

メジャーの四番がなぜ日本に?

 そもそも、その来日自体が「衝撃」だった。ホーナーといえば、その前年もアトランタ・ブレーブスの四番バッターとして、27本塁打を放ったバリバリのメジャーリーガー。1978年6月のドラフトで全米NO.1指名を受けると、その10日後にはメジャーの舞台に立ち、そこから89試合で23本のアーチを架けて新人王に輝いたという、エリート中のエリートである。

 来日時点でまだ29歳、メジャー通算215本塁打を誇るスラッガーが、なぜ日本にやってきたのか? それは年俸高騰を嫌うメジャー球団のオーナーたちが、FA選手に対して高額なオファーを控えるよう、示し合わせていたから。前年までの所属球団との再契約期限を前に“白旗”をあげる選手も少なくなかったが、ホーナーはブレーブスとは再契約せず、オープン戦の時期になっても移籍先を模索していた。

 他球団との交渉も折り合わず、路頭に迷う形になっていたホーナーが(というよりは彼の代理人が、だが)取ったウルトラCが、日本でプレーするという選択だった。

 メジャーリーグ開幕から1週間あまりが経った4月14日(現地時間)、米国でヤクルトと契約を結び、27日に来日。5月5日の阪神戦(神宮)に初出場して左の仲田幸司から来日初アーチを放つと、翌6日の同カードでは池田親興から3ホーマー。一見すると力感のない構えからコンパクトなスイングで左翼上段、左中間中段、そしてバックスクリーンに叩き込んだ3本は、見ている者の度肝を抜いた。

「黒船襲来」にもなぞらえられた衝撃

 その様子を、筆者もスタンドで見ていた。ホーナーがメジャーデビューした1978年は、ちょうど筆者がメジャーリーグを見始めた時期と重なり、話題の超大物ルーキーだった彼には少なからぬ思い入れがある。3本のホームランに興奮しつつ、ひそかに「4本目」も期待していた。前年、ブレーブスで1試合4本塁打のメジャータイ記録を打ち立てたことを知っていたからだ。

 8回裏、ネクストバッターズサークルで5打席目を待っていたホーナーの目の前でヤクルトの攻撃が終わり、スタンドは大きなため息に包まれる。「4発目」は幻に終わったが、最初の2試合で4ホーマーという鮮烈な日本デビュー。さらに9日の広島東洋カープ戦(佐世保)でも2本塁打を放ち、来日4試合で6ホーマー。その衝撃は江戸時代の「黒船襲来」にもなぞらえられた。

 ホーナーは夏場に腰を痛め、ファン投票で選出されていたオールスターを辞退するなど、出場は93試合にとどまったものの、それでも打率.327、31本塁打、73打点。オフにはセントルイス・カージナルスと契約を結び、日本中に「ホーナー旋風」を巻き起こした張本人は、つむじ風のように去っていった。

ロースター表にあった「HORNER」の名前

ホーナー最後の試合の手書きスコアやスナップ写真など。ロースター表には「BOB HORNER」の名前も見える(いずれも筆者所有)
ホーナー最後の試合の手書きスコアやスナップ写真など。ロースター表には「BOB HORNER」の名前も見える(いずれも筆者所有)

 それから間もなく2年が経とうという1989年3月。筆者は旅行先のフロリダ州マイアミで、ボルティモア・オリオールズとニューヨーク・メッツのオープン戦に足を運んでいた。スタンドから試合前の練習を眺めていると、遠目ながら一塁ベースのところでノックを受けている選手の顔に、どうも見覚えがある。

「えっ!」。一瞬、心臓が止まりそうになった。どう見てもホーナーなのだ。背番号は47、よく見れば手元のロースター表にも「BOB HORNER」とある。そう、やはりあのホーナーだった。

 まだインターネットが普及する前で、日本では日常的にメジャーリーグの情報を得るのも困難な時代。前年はカージナルスの四番として開幕を迎えながら、左肩の故障もあってわずか60試合の出場で3本塁打に終わり、オフに解雇されたことは知っていた。だが、マイナー契約のいわゆる「招待選手」として、その春のオリオールズのキャンプに参加していることは、まったく知らなかった。

 この日はオリオールズのオープン戦初戦。スターティングラインナップには一番フィル・ブラッドリー(のち巨人)、四番ラリー・シーツ(のち大洋)、五番ジム・トレーバー(のち近鉄)らが名を連ねていたが、ホーナーの名前はない。

 シーツに代わるピンチヒッターとして、その名がコールされたのは7回裏、1死一、三塁の場面。筆者は大きな拍手を送ったが、周囲の反応は薄い。「ホーナー? アトランタにいた奴か?」そう話すファンの声が聞こえる。彼らはホーナーが前年はカージナルスにいたことはもちろん、その前は「地球のウラ側」でプレーしていたことも、知らなかったに違いない。

「3発」と「最後の打席」、両方目撃したのは…

 メッツは先発のデービッド・コーンが早々に降板し、この回のマウンドに上がっていたのは、ブレイン・ビーティというメジャー未経験の左腕。文字どおり固唾をのんでホーナーの打席を見守ったものの、あっさりと引っかけてボテボテのサードゴロ。このキャンプで試験的に三塁を守っていたカル・リプケン・ジュニアがこれをトンネルし、ホーナーは一塁ベースを駆け抜ける。スコアボードには、当然「E」のランプ。ここで代走を送られ、お役御免となった。なんだか、あっという間の出来事のように感じられた。

「ホーナーが引退を発表」。そんな記事を目にしたのは、帰国してすぐのことだったと思う。そこには、オープン戦での出場はあの1試合だけだったと書かれていた。マイアミで見た「三失」が、野球選手としてのホーナーの“最期”になったということだ。

 それから数年が経ち、ホーナー本人と直接話す機会を得た。「あの時、マイアミであなたの最後の打席を見ていたんですよ」と水を向けると、「本当かい? はるばる日本から来ていたのは、キミぐらいだろう」と驚いたような顔をする。なにしろ、野茂英雄のメジャーデビューより、6年も前の話である。

 実際には、マイアミでは日本から旅をしていた友人も一緒だった。ただし、その友人は神宮での3ホーマーは見ていない。神宮での3発、そしてマイアミでの現役最終打席。その両方を現地で目撃したのは、自分だけではないか──今でもそう思っている。

フリーランスライター

静岡県出身。小学4年生の時にTVで観たヤクルト対巨人戦がきっかけで、ほとんど興味のなかった野球にハマり、翌年秋にワールドシリーズをTV観戦したのを機にメジャーリーグの虜に。大学卒業後、地方公務員、英会話講師などを経てフリーライターに転身した。07年からスポーツナビに不定期でMLBなどのコラムを寄稿。04~08年は『スカパーMLBライブ』、16~17年は『スポナビライブMLB』に出演した。著書に『燕軍戦記 スワローズ、14年ぶり優勝への軌跡』(カンゼン)。編集協力に『石川雅規のピッチングバイブル』(ベースボール・マガジン社)、『東京ヤクルトスワローズ語録集 燕之書』(セブン&アイ出版)。

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