鎌倉幕府3代将軍の源実朝はなぜ側室を迎えず、子にも恵まれなかったのか
少子高齢化は、我が国が解決せねばならない喫緊の課題であるが、現状では打つ手なしという感じだろうか。かつて、武家においても後継者たる男子が誕生せず、問題になることがあった。
ここでは、鎌倉幕府3代将軍の源実朝を取り上げることにしよう。
建久3年(1192)8月、源実朝は頼朝の子として誕生した。その7年後、頼朝が急死したので、兄の頼家が家督を引き継ぎ、征夷大将軍に就任したのである。
建仁3年(1203)9月に比企能員の変が勃発すると、頼家は能員という後ろ盾を失ったので、伊豆の修禅寺に幽閉されたうえ殺害された。
頼家の追放後、実朝が家督を継ぎ、征夷大将軍に就任したのである。翌年12月、実朝は坊門信清の娘と結婚した。実朝は13歳で、妻は1つ年下の12歳だった。
信清は後鳥羽天皇の外叔父だったので、幕府と朝廷との交渉役を務めていた。そうした関係もあり、実朝は信清の娘を妻に迎えたのだろう。
ところで、実朝と妻は、非常に仲睦まじかったといわれているが、子は生まれなかった。頼家は側室を迎えていたが、実朝は側室を置いていなかった。
実朝が側室を迎えなかった理由は、必ずしも明確ではない。『吾妻鏡』によると、実朝には子を作ろうという意思が薄かったという。これには、幕府関係者も頭を悩ませたに違いない。
『吾妻鏡』の記述が影響したのか、かつて放映された大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中では、子が誕生しなかった理由について、実朝が女性との性交渉に関心がなかったように描かれていた。
また、実朝は女性よりも、男性に強い感情を抱いた可能性があったとの研究もある。男色は決して珍しくなかった。藤原頼長が男色を好んだことは、自身の日記『台記』のなかで、生々しく記録されているほどだ。
当時、男色は決して特別なことではなかった。また、実朝が子を作ることができなかったことは、幕府の首脳が共通した認識を持っていた可能性がある。
現在、実朝は女性との性的な交渉が不可能であり、逆に男性を好んでいた可能性があるとの見解が有力視されている。実朝が側室を迎えなかったのは、そういう事情があったのかもしれない。
残念ながら、実朝と妻との間に子がいなかった理由は、あくまで推測に頼らざるを得ない。ともあれ、実朝に後継者たる子がいなかったことは致命的なことで、源家の将軍はわずか3代で絶えたのである。
主要参考文献
三木麻子『源実朝』(笠間書院、2012年)
坂井孝一『源実朝 「東国王権」を夢見た将軍」』(講談社選書メチエ、2014年)
三田武繁「源実朝の「晩年」」(『東海大学紀要. 文学部』第108輯、2017年)