きのうの敵はきょうの友!?敵将へ示した武士道に世界中が震撼!敵国さえも敬服した乃木大将の生き様とは?
2003年、トム・クルーズ主演の〝ラストサムライ”という映画が、人気を博しました。この作品では、サムライを目指すアメリカ人の物語が展開されましたが、かつて史実においても日本の武士道が、衝撃と畏敬の念をもって世界中をかけめぐった出来事がありました。
ときは1904年。時代は明治に入り、すでに身分としての武士は廃止されていた時代です。しかし日本は歴史上で最大とも言える国難と、戦わなくてはならない状況に追い込まれていました。
当時、世界でも最強レベルの力を誇っていたロシア帝国と、大陸での利権をめぐって激突。しかし、まだ近代化に着手したばかりの日本にとっては、国力が格上すぎる相手でした。当初は何とか妥協を模索しますが、まるで相手にされません。
そうこうするうち、極東の軍事力をどんどん増強するロシア帝国に「いつか攻められる」と恐怖した日本は、先手を打って攻撃を仕掛け、世にいう日露戦争が開始されたのです。
とはいえ勝敗以前に、日本側は資金も物資も相当なムリをしており、とても長くは持ちません。そのため、ただでさえ何倍も格上の敵軍を「タイムリミットつきで撃破せよ」という、無理難題に立ち向かわなければなりませんでした。
運命の旅順決戦
さて、日本軍にとって大きな壁は、今でいう北朝鮮の西側に突き出ているリャオトン半島、その先端に築かれていたロシア軍の“旅順(りょじゅん)要塞”でした。
要塞の港を拠点とするロシア艦隊を放置すれば、ただでさえギリギリの物資を運ぶ日本の輸送船が、いつ沈められるかというリスクと隣り合わせです。また大陸で戦う日本陸軍に対し、ひとたび要塞のロシア軍が出撃すれば、背後を襲われてしまうのです。
その上ロシア帝国は、シベリアの鉄道を使って次々と陸軍を送る一方、海からはヨーロッパ側に常駐していた艦隊を派遣と、どんどん増援を計画。これらの援軍が到着すれば、とても手がつけられない戦力となり、日本の勝ち目は消滅します。
そのため「とにかく、早く旅順要塞を落とすのだ」という無茶ぶりのような指令が下り、そのミッションを託された人が、乃木(のぎ)将軍と呼ばれる軍人でした。
彼は数万の陸軍を率いて攻めますが、要塞の防備はガチガチに固められており、そのうえ高台には、当時としては最新鋭にして“悪魔の兵器”とも呼ばれた、機関銃も設置してありました。
突撃した日本兵はバタバタとなぎ倒され、けた違いの死傷者を出してしまいます。その後、何度か攻略を試みるも要塞は揺るがず。その状況が日本に知らされると、乃木将軍への批判が巻き起こります。東京の自宅には「司令官をやめろ!」「大勢を死なせた責任をとって切腹しろ!」と門前で叫ぶ人や、石を投げ込む人もいました。
しかし乃木将軍自身も、ここまでの戦いで自身の長男が戦死しており、旅順への攻撃では次男も戦死。日本側は戦果を急いだこともあり、将校も兵士も想像を絶する苦境へ、追い込まれてしまったのです。
2人の将軍
窮地となった日本軍は何とか形成を変えるべく、最後の切り札とも言える28センチ榴弾砲(りゅうだんほう)という巨大で強力な砲弾を、万単位で旅順へ送りました。これを打つ砲台をわずかな期間で建設して打ち込むと、要塞に大打撃を与えます。
しかし、ロシア側も意地を見せて頑強に抵抗し、砲撃と共に突撃する日本兵と死闘になりました。しかし要塞を率いるステッセル将軍は、ついに猛攻を支えきれずと判断し、降伏の意志を宣言。双方とも多大な犠牲の上、要塞は陥落して日本軍の勝利となりました。
・・さて、今も昔もロシア軍は要塞を築くのが上手いという評価が強く、旅順は難攻不落とも言われていたため、この結果は世界中を驚かせました。
乃木将軍とステッセル将軍は、降伏後の条件確認などのために、水師営(すいしえい)という場所で会見を行いますが、そこには各国のメディア関係者も詰めかけます。
あるアメリカ人は乃木将軍に言いました。「ぜひ会見の様子を撮影させてもらえませんか。あなた達の勝利は素晴らしく、あとで映画を作りたいのです。」
しかし、乃木将軍は却下して言いました。「いかに敵将とはいえ、後世まで恥を残すことは、日本の武士道が許さない。」
また、こうも言いました。「戦いが終わった今、もう彼らとの間に敵も味方もない」
通常、会見とはいっても勝者と敗者は明確ですから、その場での言動や振る舞いには、歴然たる差があって当然です。
しかし乃木将軍は、ステッセル将軍をまったく同等の立場として接しました。またロシア軍人には腰に刀を下げる帯剣も許可したうえで、全員で肩を並べて記念撮影をしました。
また乃木将軍は言いました「見ればロシア人戦死者の墓が、あちこちに散在しているようです。一か所に集めて墓標を建てたいので、それぞれの故郷や名前を教えて頂けませんか」
ステッセル将軍は言いました「敵国の戦死者のことまでお気遣いを頂き、感謝の言葉もありません。あなたのような方に敗れたのならば、もはや何の悔いもありません」
そして2人はさながら親友のように打ち解け合い、談笑しているかの様子だったと言います。
この一連のできごとに、外国人記者たちは衝撃を受けました。仇敵であるはずの相手を目のまえに、あまりの礼節ぶり。西洋の騎士道精神にも重なる乃木将軍の行動は、その後に日本をはじめ世界中で賞賛されることになりました。
ステッセル将軍に怒るロシア帝国
さて、会見後にステッセル将軍は長崎へ移送となり、いくばくかの滞在をした後、最終的にはロシア本国に送り届けられました。
しかし戻ってきたステッセル将軍に対して、上層部は激怒します。
「重要な要塞を落とされた上、これだけの被害を出し、よくおめおめと帰って来られたものだな」
軍法会議にかけられ、出された判決は"銃殺刑”でした。しかし、そのような中・・帝国のトップであるロシア皇帝に、一通の手紙が届きます。そこには、このように書かれていました。
"ステッセル将軍は、祖国のために命がけで闘いました。どうか命だけは助けてもらえますまいか”
送り主は・・なんと乃木将軍でした。
さしもの皇帝も、これには心が動いたのでしょうか。特赦が降り、死刑は取りやめにされた上で、軍からの追放に減刑されたと言います。
その後ステッセル将軍はモスクワで商人となり、乃木将軍が亡くなった際にはその死を悼み、日本へ香典を送ったと伝わります。
・・それにしても乃木将軍は、いかに武士道精神を抱いていたとはいえ、息子の仇とも言える相手に、何故これほどまでのことが出来たのでしょうか。
乃木将軍はもともと長州藩のサムライとして生まれ、幕末から幾多の闘いを経験した、生粋の武人でした。
しかし、西南戦争で明治政府の討伐部隊を率いたとき、政府軍の象徴である軍旗を反乱軍に奪われ、見せびらかされるという事件が起こります。
旗をうばった敵軍は大いに盛り上がり、反対に当時の乃木将軍は「武人としての大恥、あるまじき失態!」と憤慨。責任をとり自刃を考えますが、周囲に止められたという経緯がありました。
もしかすると、敗軍の将に恥をかかせないという想いには、このような経験も影響していたのかも知れません。
乃木神社の今むかし
その後、日露戦争が終わり乃木将軍が亡くなった後、その生涯を称える人々が神格化し、今の東京・赤坂の地には乃木神社が建てられました。また邸宅があった付近には、暗くてうらさびしい風情から幽霊坂と呼ばれる坂がありましたが、その名前は乃木坂に改められました。
今では全国的なアイドルグループ「乃木坂46」 の名でも有名となり、メンバーたちが乃木神社で成人を祝うなどして、ファンたちに愛される地にもなりました。
もちろん今でも、当時の乃木将軍を想って参拝する人々もいますが、時代の流れとはいえ、たいへん面白い変遷に感じられます。
ちなみに乃木将軍は歴史的に、英雄と称える人々がいる一方、大勢を無策で突撃させて死なせた愚将・・という評価もあります。戦いで大勢の命が犠牲になったのは事実であり、旅順の攻防もその結末を、美談にばかりしてはいけないかも知れません。
しかし敵国からも尊敬された、人としての筋や品格、そこには紛れもなく真実があったと思われます。のちに水師営で行われた会見は伝説として語り継がれ、曲が作られました。そこでは、このように歌われています。
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敵の将軍 ステッセル
乃木大将と会見の 所はいずこ 水師営
きのうの敵は きょうの友
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