GⅠに挑戦する蛯名が、藤沢に言われ笑ってしまった言葉と、受け継いだ行動とは?
伯楽の下で学んだ後、開業
2022年10月30日の東京競馬場。表彰式でカップを受け取った蛯名正義。プレゼンターが彼の耳元で何かを呟くと、破顔した。何を言われたかは後に記すとして、プレゼンターが誰だったかは先に書いておこう。
藤沢和雄。
ご存知、日本を代表する“元”調教師だった。
1969年3月生まれの蛯名。武豊と同期で騎手デビューし、数々のGⅠを制した。凱旋門賞(GⅠ)では2着2回。リーディングジョッキーにも上り詰め、名ジョッキーの名をほしいままにした。そんな彼が初めてGⅠを制したのが1996年の天皇賞(秋)。騎乗したのはバブルガムフェローで、同馬を管理していたのが藤沢だった。
騎手としての晩年、調教師試験を視野に入れると、その藤沢の門を叩いた。
「初GⅠがどうというより、トップトレーナーから色々教えていただきたいという気持ちで、藤沢先生の下で学ばせていただきました」
晴れて調教師試験に合格。22年に藤沢が定年で厩舎を解散し、バトンを受けるように開業すると、多くのスタッフを受け継いだ。
「調教師としては新米で、騎手時代にはやらなかった事や知らなかった事が沢山ありました。でも、元藤沢厩舎のスタッフはそういった事をよく分かっているので、先回りしてサポートしてくれます。開業前から何年も一緒に働き、気心も知れていたので、細かい事を言わなくてもこちらの意図を汲み取ってやってくれるから助かります」
レジェンドトレーナーの思わず笑ってしまうひと言
人だけではなく、馬も何頭か受け継いだ。そんな中の1頭に、レッドモンレーヴがいた。
「藤沢先生が面倒を見ていた若い頃から素質は感じさせていたけど、体が丈夫でありませんでした」
そんな頃、伯楽がよく言っていた言葉があったと続ける。
「『慌てずじっくりやっていけば、必ずそのうち良くなるから……』。これはモンレーヴに限った事ではなく、先生がよく言われていた言葉です」
22年2月27日。藤沢が出走馬を送り込んだ最後の開催となったこの日、レッドモンレーヴは見事に1着。これが藤沢にとってJRA1570回目の勝利となり、現役最後の勝ち星となった。
その後、同馬を受け取った蛯名は、師匠の教えを忠実に守った。レッドモンレーヴが丈夫になるまで、じっくりと待ったのだ。結果、約8ケ月ぶりの実戦で、転厩後、初出走となったのが、冒頭で記した昨年10月のレース、レジェンドトレーナーカップだった。
このレースは、レジェンドトレーナーである藤沢の功績を称え、行われた。バブルガムフェローの他にもシンボリクリスエスによる連覇やゼンノロブロイ、レイデオロ等、天皇賞(秋)(GⅠ)を得意としていたレジェンドの功績を称え、天皇賞当日に行われたのだ。レッドモンレーヴは、見事にこれを勝利。蛯名はプレゼンターの藤沢からカップを受け取った。
「良い状態になってきて、使う事になったのですが、それがたまたま藤沢先生を称えるレースでした。スタッフとは『負けられないな……』と話していましたけど、プレゼンターが藤沢先生だとは、事前には聞いていませんでした」
念願かなって勝利をし、表彰式でカップを受け取る際、何を言われたのかを問うと、蛯名は苦笑しつつ、答えた。
「『今まで受け取る事はあっても、渡すのは初めて。受け取る方が良いな』なんて言われたから、思わず笑ってしまいました」
伯楽から受け継いだ行動で、縁のあるGⅠへ
さて、レッドモンレーヴはその後、準オープンも勝利。前々走のダービー卿CT(GⅢ)こそ出遅れて7着に敗れたが、京王杯スプリングC(GⅡ)では鋭い末脚を披露。見事に先頭でゴールをして、蛯名“調教師”に重賞初制覇を届けてくれた。
「自分の重賞初制覇が嬉しいというよりも、前走で1番人気を裏切る形になっていたから、正直、ホッとしました。実力的にあんなに負ける馬ではないと信じていたので、巻き返せて良かったという気持ちでした」
そう言うと、再び、名調教師との「不思議な縁を感じました」と続けた。
「京王杯といえば、藤沢先生が得意にしていたレースです。そこで重賞初勝利を達成出来たので、藤沢先生が導いてくれたのかな……と感じました」
実際、藤沢はタイキブリザードやタイキシャトルで京王杯をレコード勝ちしていた。スティンガーによる連覇もあったし、ムーンクエイクやタワーオブロンドンでもレコードタイムをマークして勝っていた。蛯名が語るように、伯楽にとって京王杯は大好物だったのだ。再び蛯名の弁。
「藤沢先生に電話で報告したら『良かったな~』と言ってくれました。見てくれていたようで、ありがたい話です」
そんなレッドモンレーヴで、蛯名は今週末の安田記念(GⅠ)に挑戦する。
安田記念といえばこれもまた藤沢にユカリのあるレース。タイキブリザードやタイキシャトル、グランアレグリアで勝利している。
「GⅠで相手も一段と強くなるし、簡単なレースだとは思っていません」
そう語る蛯名が、藤沢から受け継いだ事がもう一つある。東京競馬場の地下馬道からパドックへと上がる坂。伯楽は「雑音がなく集中して見られるので、何かあればすぐに駆け付けられる」と、そこからパドックを回る馬を見ていた。現在、蛯名もそこに立ち、管理馬の様子に目を光らせている。安田記念のレッドモンレーヴもおそらくそこから見るのだろう。レース後にはレジェンドトレーナーに再び朗報を届けられるだろうか。応援したい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)