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福島からの証言・1

土井敏邦ジャーナリスト

(三浦国広さん/撮影・土井敏邦)
(三浦国広さん/撮影・土井敏邦)

【三浦国広】(2013年8月収録/当時・78歳/飯舘村出身)

〈概要〉原発事故前は飯舘村で息子(当時・44歳)夫婦とその息子(当時・5歳)、三浦氏の妻の5人家族と暮らしていた。三浦氏と妻は農業。息子は飯舘村の企業に勤務。

 事故後、伊達市国見町に避難したが、アパートが狭く不自由で、その後、三浦氏夫妻は伊達市の仮設住宅に移った。息子は国見町から1時間以上かけて飯館村に通勤。

【飯舘村での生活】

 飯舘村ではミニトマトを1.5反(15アール)、田んぼ6反に米を作り、冬は小松菜、たらの芽などを生産して農業一本でやってきました。

 息子は以前から、飯舘村の林製作所に勤めていました。息子が休みのときは農作業を手伝ってくれましたが、いつもは俺とかみさんの2人で農作業をやってきました。

 夏はトマトの最盛期だから、朝は5時に起きて前の日に収穫したトマトを箱詰めし、朝に出荷します。朝ごはん食べたら、ハウスに行くんです。どんなに暑くてもいかなくてはいけない。一日置いたら、トマトの実が割れてしまうから。

 長さ43m、間口が5mのハウスを7棟作っていました。毎日、3ハウスはこなさなければいけない。ぐるぐるローテンション組んで、水をやるんです。朝ごはん食べたら、すぐに出ていって、午前中いっぱいトマトの収穫作業をやります。昼ごはんのとき、収穫したトマトを軽トラックで家に持ち帰ります。昼ごはんを食べたら、かみさんが機械にかけて選別をやります。それが終わったら、パック詰めです。

 俺は昼ごはんの後、ハウスに戻ります。一日中、ハウスでの仕事です。夕飯食べたら、パック詰めの手伝い。夜9時、10時ごろまでかかります。7月20日ごろから10月の半ば頃までのまるまる3ヵ月間、そんな一日の繰り返しでした。お盆が最盛期です。お盆くらい休みたいなあという時は、ハウスのもう1棟を無理して採ったり、ずらしたりして調整します。採り遅れるとトマトの実が割れてしまうから、毎日30分、川の水をトマトにあげるんです。

 飯舘村とは自分にとって何だったかって? そうだなあ。いいところは冬。木枯らし吹いて雪降って、外の仕事ができない時にコタツに入ってテレビを見る。それが一番いい時だったなあ。

 忙しい時もあったけど、そういうのんびりした時間がよかったなあ。自然に囲まれた時間だろうな。それが俺は一番好きだった。朝、「ああ今日は雪か。今日は仕事に行くことはできねえ。じゃあ、今日は一日、のんびり休むか」と。

(飯舘村/撮影・土井敏邦)
(飯舘村/撮影・土井敏邦)

 飯舘村のよさは、四季折々に花を咲くことかなあ。春になれば蕨(わらび)も採れる。6月になったら、蕗(ふき)もある。山菜は何でも採れた。秋になれば、そろそろ山のきのこができそうだから、行ってくるかと、友達に電話して、「今日はきのこ採りにいくべ」。「今日はいっぱいあったなあ」と籠いっぱい採って帰ってくる。

 また年に1回、10月の末には村祭りがあって、それが一番大きなイベントだったね。農家にとって、村挙げての行事だったから。各集落には神社があって、春や秋にお祭りがあった。

 仮設にいると、それが何にもないんだよ。ただ漠然と起きて、夜になると寝る。ただそれだけのことです。いかに飯舘村がよかったのか今つくづく思うね。

 じゃあまた、「こんなことしていられねえ、来春は飯舘村に戻って、山菜採って、きのこを採りに行くか」と言っても、それができるわけがねえから、ここの生活に慣れるしかないんです。

【原発事故の影響】

 大震災が起きた3月は、ちょうどタラの芽の出荷時期でした。11月にタラの木を15センチぐらいに切ってきて、それを水につけて、一定の温度に保つ。その木片をトレイにびっしり並べて、下に水をはって、テーブルくらいの高さに起きます。それを上から電熱で温めて、芽を出させるんです。

 地震の時は山の伐採をやっていました。その直後、うちの前の水槽の水がなくなっていました。地震で揺れて、水が全部水槽から出てしまったんです。

 帰りに、コンビニに寄ったら、人がいっぱいで、棚は空っぽ。カップラーメンすらなかった。3カ所ほど回ったけど、どこも空でした。

 家は電気コタツでしたから、停電で使えなくなった。3月の夜は寒いなんてもんではない。代わりにストーブ2つで暖をとりました。風呂も入れない状態でした。翌朝になって、確保していた木炭で電気コタツの代わりにしました。

 3月17日に埼玉県にいる弟が電話で「原発が爆発したから、避難して来い!」と言うんです。放射能については私たちには何の知らせもなかったんです。外部から「原発が爆発したから、危ないんじゃないか。すぐ来い」と言われ、放射能のことを初めて知りました。

 小高に嫁いだ娘が親子でやってきました。娘や息子の家族を合わせて6人が5人乗りの車に乗って、埼玉まで突っ走ったんです。

 その後、福島に戻って、家内といっしょに甲状腺の検査受けました。すると私だけ「微妙ですが、放射線が体内に入っている」と言われました。家内と二人ずっと同じところにいて、なぜ俺だけ被爆しているんだと思ったけど、一つ思い当たることがありました。

 その年の夏に、「田んぼの草を刈れ」という通達を村から受けました。放射線がどれほど危険なものかなんて何の知識もなかったんです。俺たちは全く防護もせず、草を刈りました。だから草に付着した放射線を全部吸い込んだんだと思います。8月は暑くて、マスクどころではなかったです。そういう肝心な指導や通達は村民には全くなかったです。

 誰が悪いんだ? 末端の村長や行政区長ではなくて、国が一番悪い。「原発が爆発したら、風向きの関係で、飯舘村や浪江、津島がたいへんだよ」といち早く通達してくれたら、早く避難するなど、みんな対処はできたはずだから。

【仮設住宅暮らし】

 「悩みはない」と言えば嘘になります。悩みました。でも悩んで、自分独りで解決することができますか? 飯舘村の家に戻ればいいけど、それができないでしょう? だから悩むことは途中で止めたんです。

 朝、ラジオ体操をします。玄関の戸を開けると、家の前の人が「おはようございます。今日は天気がいいね」と声をかけてくれる。飯舘村の家に行けばそれがないんです。飯舘村ではここに一軒、あそこに一軒と離れて生活しているから、ここでは、みんなの顔が見られて、あいさつ交わして。私はそれが一番いいですね。

 ただ、四畳半での生活だから窮屈ではあるけど、その反面いいところもあるから、我慢もしなくちゃなあ。

(三浦さんが暮らしていた伊達市の仮設住宅/撮影・土井敏邦)
(三浦さんが暮らしていた伊達市の仮設住宅/撮影・土井敏邦)

 俺は78歳で、家内が75歳です。精神的に参ることもあります。私の家内は不眠症になっています。「いろいろなことを考えて眠れない」と言うんです。こちらに来て3ヵ月ぐらいして、やっと医者に行って、睡眠薬(精神安定剤)をもらいました。今もずっと飲んでいます。

 ここの環境の問題というより、自分の精神状態が問題です。「なぜこうして避難しなければいけないのか。家にいたら、こういうこともできた」などと考えると、頭の中に前の生活が走馬灯のように出てくるんです。

 私は性格がのんびりの方だから、「ストレスは全くたまらない」というと嘘になるけど、そんなものを溜めてみてもどうにもならない。後ろを振り返って、どうこう言っても、どうにもならない。じゃあ、これから自分でどうすればいいんだ。私はそれしか考えないようにしています。すると家内が「よくそんなのんきなことを語っていられるね」と言うんです。でも、後ろ振り返ってどうなる?「ああ、あれだけハウスあるのに、もったいないなあ」と言っても何かできますか。何もできないでしょ?

 「家に帰れば、大きな部屋で寝起きもできるのに、何でこんな狭いところでいなければならないんだ!」と言っても、じゃあ、家に帰って生活できるのか。これもできないわけでしょ? ここに何年いなくてはいけないのか。仮設暮らしはすでに2年、でも除染などは進まないから、あと2年くらいという話も出てくる。その間に、自分がやることを考えなければ。どうすればいいんだと。

 ずっと家で飼ってきた猫は飯舘村の家に残してきました。それが辛いです。だからその猫のために、週に3回家へ通うんです。

 家に帰って玄関前に車を横付けして、膝の上に猫をあげて、2時間くらい家にいます。猫の名は「シロ」、真っ白な猫だから。「そろそろ帰っていくべ」と言うと、わかんだろうね、膝から降りて、玄関開けると、先に出ていく。西向きで、車をバックで入れます。シロは縁側で西の方を向いて座るんです。背中を見せる。「また来っからな」と声をかけると、シロがこっちを見るんです。あれがなんともたまんねえんだな。あれがほんとうに辛い。

 だから俺はいうんだ。下手に子ども育てるよりは、猫や犬を育てたほうがいいって。人間の子は、ある一定の年齢になると、口もきかない。親が何か言うと反抗もしてくる。犬や猫はそれがない。「子や孫を犬猫といっしょにすんな」と言われるけど。

【将来】

 息子は「子どもが小さいから、俺は飯舘村には帰らない」と言います。「親父らは帰るのか?」と息子に訊かれて、俺は「家も土地もあるから、帰らないわけにはいかない」と返事しました。すると息子は、「でも帰ってどうする?」と訊くんです。一番の問題はそれです。帰って農業して、作ったものが販売できれば、おのずと若い人たちも帰ってくるでしょうけど。

 私は村で作った作物を自分たちが食べることには抵抗はありません。除染して、そこで作ることになるから。でも、それを販売するとなると、どうする?

 「中通り」(福島県の中部)の農産物や果物を「いわき市の人に送るから」と言っても、「いりません」と言われてしまう。「福島のものは要りません。息子たちは食べないよ。食べないものを送ってもらっても困るから、いりません」と言われるんですよ。同じ福島県人さえも、福島のものはいりませんと言うときに、「除染しましたから、さあ食べましょう」と言って、売れますか?

 飯舘村の家は昔風だから風呂は外にありました。震災前にそれが壊れてしまって大工さんに見積もってもらったら、ユニットバスで170万円もかかると言われた。

 震災後、たまにしか帰らない家に風呂まで作る必要はない、170万円かけるのなら、ほかにやりたいことがあると思い直しました。

 それはお墓です。じいちゃん、ばあちゃん、親父、お袋、4つの土葬の墓があります。その墓全部を掘り起こして、骨を納骨堂に納めて三浦家の墓を作ることにしました。それには150~160万円かかります。

 飯舘村を出た俺の兄弟が里帰りしてお墓参りに行っても、2年や3年ごとにしか来ないから、親父の墓、お袋の墓を探すのがたいへんですから、同じ墓地に新しい墓を作ることにしたんです。墓に170万円もかけるなら、もう少し金を出して、こちらに墓を作り遺骨を全部持ってきて入れることも考えました。でも、飯舘村には財産がそっくり残っています。田んぼもあれば畑も、山もある。それに、飯舘村は自分が生まれ育った故郷で、何よりも大切です。その故郷がある限り、せめてお墓だけは飯舘村に残しておいて、自分が丈夫な間はお墓参りに行こうと思ったんです。

 息子らが飯舘村に戻らず、私らが戻ると言った場合、歳をとらずに今と同じでいられればいいけど。今は口も足腰もきく。でもあと3年、5年したら、いつ動けなくなるかもわらないでしょう? そうなった時にどうしますか?

 この前、飯舘村の農協に行ったとき、職員が、「戻るとしたら、年寄りばっかりだろうなあ」と言っていた。50、60代の人が帰って、牛や花を始めようかという人はいるかもしれないけど、農作物を販売することは戻ってもできないだろうなあ。年寄りばかり帰ったら、これは「山の枯れ木」と同じようになってしまう。

(三浦国広さん/撮影・土井敏邦)
(三浦国広さん/撮影・土井敏邦)

 ある人が「三浦さん、そうなった時には、村で、買い物へ行くバス、病院へ行くバスなど巡回バスを出すから心配ない」と言うんです。それは仮設住宅のような平地なら、バス来たら、時間通りにバスに乗っていけるだろうけど、飯舘村では玄関前までやってきて、乗せたりしないでしょう? 道路まで出なければならない。50~100mさえ歩くこともできなくなっているでしょう。そんなとき、いったい誰がバスに乗せてやって買い物や病院へやってくれますか? そうなったら、息子や嫁さんに「食べ物なくなったから買ってきて」「病院にいきたくなったから迎えに来て」と言えますか? 親だから、息子たちは1年ぐらいは我慢して言うことを聞いてくれる。でも2年、3年と経ってくると、これはケンモホロロの挨拶になってくるよ。「じいさま、何言っているんだ。俺たちだって生活あるんだから、何とかしろよ」って。でも歳とってから「何とかしろよ」と言われて、何かできますか?

 「じゃあ、施設にでも入るか」といっても、今の国民年金では施設に入れないですよ。2ヵ月に1回、満額の年金は13万円。いま老人ホームに入るにも、安い部屋でも月15万円。年金1回もらっても、1ヵ月入れないんですよ。年金でも満額もらえる人は13万円だからいいけど、中にはそれだけの金をもらえない人がいる。その年金から介護保険、国民健康保険が引かれる。それでいくらもらえる? 11万円しか入ってこないんですよ。

 だから、いずれ自分が動けなくなった時に、「ああ、困った」ではなく、家族と話し合って、「戻っても農業はできないと、もう見切りをつけなさい」と俺は言うんです。自分は村に戻って生活することができないのなら、生活の拠点を息子と合わせるしかないんですよ。「俺らが飯舘村に戻り、息子らがここで生活をする」となると、後々、子どもが買った家に、親が後から入ってくることとなる。でも、これは辛いよ。親は肩身が狭い。いくらでも補償をもらっているうちに、後で「生活できなくなったら。面倒見ろ」と息子に言うと、嫌とは言わないと思うけど、「仕方ないから、来たらよかんべ」と言われる。そんな家にどうして入れますか? 肩身の狭い思いをして入るしかないですよ。ならば今、補償金をかき集めれば、中古住宅1軒ぐらいなんとかなるから、「その家を俺が買ってやるから、やがて俺らが動けなくなる時に、その家に入れてくださいよ。それまではあんた方、入ってくださいよ」と言っておけば、大手振って入っていける。

 要するに、若い人たちがコツコツ貯めて建てた家に入るよりも、あばら家でも自分が買って与えた家に、後で私らが入れば肩身は狭くないと俺は考える。それしかない。

 昔は「子が親の面倒みる、それが当たり前だ」と思ってきたけど、今は違うんですよ。親は年金かけているから、自分らで生活できるんだと思われている、でも生活できる年金がもらえるのかということです。国民年金ではほんとうに小遣い程度で終わってしまいます。年金が小遣い程度でも、自分が買っておいた家に若い人を入れておいて、後からそこに入れてもらえば、その年金で自分の食いぶいくらいは出せます。

 昔の親はわりと暢気だったけど、今の親はたいへんだ。「えらい時に親になった」と思ってな(笑い)。

ジャーナリスト

1953年、佐賀県生まれ。1985年より30数年、断続的にパレスチナ・イスラエルの現地取材。2009年4月、ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』全4部作を完成、その4部の『沈黙を破る』は、2009年11月、第9回石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞。2016年に『ガザに生きる』(全5部作)で大同生命地域研究特別賞を受賞。主な書著に『アメリカのユダヤ人』(岩波新書)、『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)、『パレスチナの声、イスラエルの声』『沈黙を破る』(以上、岩波書店)など多数。

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