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精神科医が教えない「つい他人の顔色をうかがってしまう理由」と解決法

ひとみしょう哲学者・作家・心理コーチ

つい他人の顔色をうかがってしまうことに悩んでいる人に対して、ある精神科医は「主体的に相手を思いやることで他人の顔色をうかがわない人になれます」と言います。私はいつも思うのですが「それができれば苦労しない」ことを、なぜわざわざ書くのか理解に苦しみます。それができないから、あなたはこの記事のタイトルをクリックして、今まさに読んでおられるのですよね?

というわけで今回は、つい他人の顔色をうかがってしまう理由とその解決法について、哲学の方面から一緒に見ていきたいと思います。

恐れる気持ちと見下す気持ち

私たちは例えば、自分に自信がない時、つい他人の顔色をうかがってしまいます。自分がどう見られているのか? がすごく気になるからですよね?

それは、別の言い方をするなら、他者を恐れているということです。「ママ友に貧乏だと思われたらどうしよう」「上司に仕事ができない無能な部下だと思われたらどうしよう」。

他者を恐れるというのはじつは、他者を見下しているということです。

ママ友を恐れるというのは、そのママ友のことを例えば「金カネ言いやがって。そんなに金が好きならドバイの大富豪と寝て来いよ」と、心のどこかで思っているということです。上司のことを「ただの『会社のイエスマン』の哀れなおっさん」と、心のどこかで思っているということです。要するに見下している。同様に、毒親の顔色をうかがう人というのは、毒親のことを恐れつつも同時に、例えば「自分の夢を子に託しまくるバカ親」と思っているということです。

同じ人

どのような人も「自分ではどうすることもできない事情」を抱えています。バカな会社の上司はあなたにバカ呼ばわりされるだけの理由を持っています。それは生い立ちに起因することであり、同時に生まれもった身体能力の限界かもしれません。身体って意識とはまったく独立になんらか「意志のようなもの」を持っているというのは、メルロー=ポンティの慧眼です。要するにご本人にもどうすることもできない「生きざまのクセ」を持っているのです。

どのような人もあなたと「同じ人」だと思えた時、精神とか魂と呼ばれている心の領域が開きます。その時、他人の顔色をうかがわない人になります。

哲学者・作家・心理コーチ

8歳から「なんか寂しいとは何か」について考えはじめる。独学で哲学することに限界を感じ、42歳で大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なんか寂しいとは何か」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』(ともに玄文社)、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道先生主宰の「哲学塾カント」に入塾。キルケゴールなどの哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミーと人見読解塾を主宰している。

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