秀吉の妻、寧々の実家杉原氏のルーツ
27日の大河ドラマ「どうする家康」に、和久井映見演じる豊臣秀吉の妻寧々(ねね)が登場した。
秀吉の妻は、かつては「ねね」と言われていたが、次第に「おね」が主流となっていた。しかし近年、やはり「ねね」ではないかという説が再登場し、名前については直近の説を採用することの多い大河ドラマでは「寧々(ねね)」となっている。この他にも「ねい」説もあるなど、基本的にこの時代の女性の名前についてははっきりしたことはわからない。
人名事典などでは出家後の名前「高台院(こうだいいん)」として掲載されていることが多い。
秀吉と寧々の出自
さて、秀吉は出自も定かではない。一般的には父は木下弥右衛門という、もと足軽の農民だったといい、ドラマ中でも「百姓の出」と言われている。しかし他にも様々な説がありはっきりしない。天下を取った後には様々な説が流布し、中には祖父は「萩中納言」という公家で、秀吉は天皇の落胤というものまで登場した。もちろん萩中納言という人物は実在せず、天皇家とは全く関係ない。
一方、寧々の実家は尾張国春日井郡朝日村(現在の愛知県清須市)の武士、杉原氏である。そのため、秀吉との結婚は「身分の差」から反対され、祝福されていなかったという。因みに、結婚した当時は織田信長の家臣浅野長勝の養女となっており、浅野家から嫁いでいる。
杉原氏のルーツ
では、寧々の実家杉原氏とはどういう家なのだろうか。
寧々の生まれた尾張杉原氏は桓武平氏と称している。南北朝時代、備後国南部に桓武平氏の杉原(椙原)氏がいた。室町時代には幕府の奉公衆となるなど、この地の有力武士で、尾張杉原氏もこの一族であるというが詳細はわからない。
尾張杉原氏は、寧々が秀吉と結婚したことによって広く知られるようになった一族である。
寧々の父は杉原定利という。定利は杉原家の家付き娘朝日殿(名は「こひ」)と結婚して、杉原家の婿養子となっていた。その父は不明で、一説には「木下」を名乗っていたともいい、秀吉が「木下藤吉郎」と名乗っていたのはこれによる、という説もある。
杉原氏の子孫
寧々が秀吉と結婚したことにより、その一族は数少ない身内として重く用いられた。
寧々の兄家定は秀吉に仕えて木下家定と名乗り、播磨姫路城主となった。その後、大坂城留守居役をつとめていたが、関ヶ原合戦では高台院(寧々)の警護の任にあったため敗将とはならず、のちに備中足守城主となった。
子孫は、備中足守藩と豊後日出藩の2家にわかれて明治維新まで続いている。