「姓」から「名字」への転換期だった『鎌倉殿の13人』の時代
現在では、「姓」と「名字」は同じ意味の言葉として使っている。しかし、江戸時代以前は「姓」と「名字」は別のものだった。「姓」の方が古く、「名字」は新しい。そして、2022年のNHK大河ドラマで描かれる「鎌倉殿の13人」の時代は、ちょうど「姓」から「名字」への転換期にあたっていた。
「姓」と「名字」の違い
「姓」は古くからあり、蘇我馬子の「蘇我」や、物部守屋の「物部」のように古代から使われているものや、「平」や「源」のように奈良時代以降に天皇家から分家する際に賜ったものがそうだ。それに対して、平安時代中期以降に武士や貴族が、自分の家をはっきりとさせるために自ら名乗ったものが「名字」である。従って、「姓」は一族の出自を示す大きなくくりで、「名字」はその中で家と家の区別を表している。そして、「姓」は公的なもので原則変更できないが、「名字」は自称に過ぎず自由に変更できた。とくに鎌倉時代から室町時代にかけては、分家すると新しい名字を名乗るというのはごく普通のことで、こうして名字の数は増えていった。
実は「姓」と「名字」には簡単な見分け方がある。古代の人は「蘇我馬子」(そが の うまこ)「物部守屋」(もののべ の もりや)のように、姓名間に「の」が入る。平安時代の貴族たちも「菅原道真」(すがわら の みちざね)「安倍晴明」(あべ の せいめい)と「の」を入れる。
一方、鎌倉時代以降は「北条時政」(ほうじょうときまさ)「足利尊氏」(あしかがたかうじ)「徳川家康」(とくがわいえやす)と「の」が入らない。この、「の」が入るのが「姓」で、「の」が入らないものが名字である。ただし、「豊臣秀吉」のように「姓」でありながら「の」を入れない例外もある。
「名字」の誕生
平安時代の朝廷は藤原姓の一族が席巻していた。そこで、公家たちは他家と区別するために、姓とは別に自分の家を指す「家号」(かごう)を名乗るようになり、この家号が次第に固定化されて「名字」となった。
同じ頃、武士達も自らの所領を示すために、その地名を「名字」として名乗った。「名字」を名乗ったからと言って「姓」がなくなるわけではなく、当時は「姓」と「名字」の両方を持つことが普通であった。
鎌倉時代頃からは日常生活では「名字」の使用が主流となり、「姓」は朝廷関連の公文書など特定の公式の場でしか使用されなくなっていった。たとえば、足利尊氏は「姓」が「源」で、「足利」は名字である。一般的には「足利」を使用したが、公的な文書では「源尊氏」と署名している。この形式は明治初頭まで続き、菅原姓の大隈重信が「菅原朝臣重信」と書かれている文書も現存する。
「姓」から「名字」への転換期
「鎌倉殿の13人」の時代は、こうした「姓」と「名字」の両方が日常的に使われている時代であった。
ドラマの登場人物をみても、平清盛、源頼朝などは名字を持たず、姓である「平」や「源」を名乗っている一方、梶原景時や北条時政などは「平」という姓ではなく「梶原」や「北条」という「名字」を使用しているなど、「姓」と「名字」が混在して使われている。
こうした過渡期のため、姓の場合にのみ「の」を入れるというルールも混乱しており、名字を使っている北条義時は「ほうじょうよしとき」と名乗るはずだが、実際には「ほうじょう の よしとき」と「の」を入れて名乗っていたとされる。
やがて、源氏、平氏ともに嫡流が滅んだことで、日常的に「姓」を名乗る一族は表舞台から遠ざかり、以後は日常的に「名字」を名乗る人達の時代となったことから、「名字」と「名前」の間の「の」は使われなくなっていく。
さらに、日常では「姓」を使用しないため、やがて「姓」が何であったわからなくなった家も増え、戦国時代には「姓は不詳」という大名家もあった。徳川氏(松平氏)の「源」、織田氏の「平」などは自称で、本来の「姓」はよくわからない。
それでも、公式の場では「姓」を名乗らなければならず、一定の地位にある家では自称で「姓」を名乗っていた。