樋口尚文の千夜千本 第4夜 「生贄のジレンマ」(金子修介監督)
”ひとりプログラム・ピクチャー”の豊饒の海
金子修介監督が凄いことになっている。
というのは、まず公開本数的に、目下公開中の「百年の時計」、7月公開の「生贄のジレンマ」、8月公開の「ジェリー・フィッシュ」、さらに加うるにBee TVで配信の「危険なカンケイ」と、恐るべき多作ぶりなのだ。さらに驚くべきは、それらの作品の内容と制作背景の多彩さである。心なごむファンタジーからティーン向けのサスペンス、ポルノチックな少女映画・・・・その内容の幅は四国のご当地映画にDVD主体の映画化に携帯ムービーにと、その作られ方のフェーズの違いと表裏をなす。
金子監督といえば日活ロマンポルノから出発し、後には「デスノート」や平成「ガメラ」シリーズのような大作を数々手がけてきた作り手だが、今やそういう大作もなかなか制作されにくい時代となった。劇場で映画を見ない、いわんやソフト化されても所有したい気もない・・・・という若者が増え、シネコンも往時のようには儲からない。こうなると回収リスクを伴う大きな映画づくりは敬遠されるが、一方ではデジタルムービーの制作・公開のインフラが飛躍的に普及したので、「小さな映画」は格段に作りやすくなって、巷間にはわんさと低予算デジタルムービーがひしめいている。
映画は加速度的に、どんどん「小さく」なっている。そもそも三人くらいのスタッフで手づくり映画を撮って珠玉の小品を積み上げてきたエリック・ロメールのような作家だったら、これは大歓迎の風潮だったかもしれない。しかし、それ相当のスターが出て、それ相当の派手な見せ場や展開を用意することで娯楽映画を作ってきた商業的な監督にとっては、”こんなもんが映画か。あほらしい。こんな制作条件で撮ってられるかい!”みたいな状況になっている。その激変ぶりは、例えば裕次郎や小百合ちゃんの映画を撮っていたスタッフが低予算のロマンポルノを撮ることになった時の失望とも比べものにならないくらいの絶望感に違いない。雪崩のように「小ささ」へ傾斜している映画づくりについてゆけない商業監督たちは、おのずから撮る機会を失ってゆく。
そういう意味ではコンスタントに大作監督を以て任じていた金子修介監督が、いま実に貪欲にその「小さな映画」に向き合っている。おそらく”これって映画の現場と呼べるものなのだろうか?”ぐらいの悲壮な瞬間にも立ち合われていることだろうが、飄々とした姿勢で(外野にはそう見えるだけだが)「小さな映画」に次々と取り組んでいる金子監督は、さながら”ひとりプログラム・ピクチャー”の感がある。この金子監督の果敢なる姿勢をまず熱烈に応援したい。
7月13日から1週間だけ辛うじてスクリーンで上映される新作「生贄のジレンマ」は、なんと上・中・下篇通すと4時間30分にも及ぶ作品ながら、劇場公開はほとんど宣伝もなされておらず、ひっそりと劇場公開した直後にはDVDリリースされる。映画がどんどん小さくなり、その観られ方もパソコンやスマホといったたなごころのサイズになっている今どき、わざわざ時間をつくって劇場まで足を運んで映画を観るという行為は、ひじょうに面倒くさいものになっているらし。しかし、映画という表現は、大スクリーンに観客たちが集って観ることで完成されるものだ。だから、たとえ1週でも金子監督は「生贄のジレンマ」の劇場上映にこだわったという。これは撮影所出身のフィルム世代という、今や希少種の作家ゆえの、せめてもの抵抗であることだろう。
ある高校の卒業式の日、校庭に謎の穴がぽっかりと空き、クラスメートたちは殺人バリアによって校内に監禁される。これをもって、誰が何のために?それは全くわからない不条理の殺人ゲームが開始される。追って校内放送で誰かを穴に生贄として捧げないと皆死んでしまうぞというおふれがあって、生徒たちの間ではいったい誰を生贄とすべきか、自分が生贄にされるのでは、といった疑心暗鬼の恐慌が続く。やがて正義感のある一部の不屈の生徒たちが、このデスゲームを頓挫させるための試みに打って出るが、この罠はなかなか覆せず、最後の最後まで死者が後を絶たない・・・・
ひじょうに大雑把に言うと「生贄のジレンマ」はこんな内容なのだが、相当なローバジェットとおぼしき制作条件のなかで金子監督は身上とするティーンの少年少女たちの描写をこつこつと快調に積みあげて、いつの間にか4時間30分完走させられる。私は幸運にも小さなデジタルムービーも含めて金子監督の作品を全てスクリーンで観ているので、今回も4時間30分を通した初号試写を一回だけ行うと聞いて、死に物狂いで馳せ参じたが、ほぼ全体が学校の校舎と校庭くらいの限定空間の”極限状況劇”を、時にはラブロマンス、時にはアクション、時にはSF、時にはサスペンス・・・・といった風味をまぶして、長尺を語りおおせる金子監督のストーリーテリングは、やはり本当はスクリーンで観てほしいものだ。前回激賞した「ジェリー・フィッシュ」のナイーブで高密度の語りとはまた違うが、この(いい意味で)大ぶりで快調な娯楽映画の語りはまたいかにも金子さんらしい。
付けくわえれば、この作品のシナリオを手がけた小林弘利さんも本作に「監禁探偵」「江ノ島プリズム」と脚本作の映画が続々公開されているが、小林さんもまたこうしたジュブナイル系のファンタジーやSF、サスペンスを身上とする娯楽映画のディレッタンティズムを知る人である。かつて量産されたプログラム・ピクチャーにあっては、こんな監督や脚本家が(いわゆる超大作的な興行や賞獲り的な、目立つ領域とは違うところで)こぢんまりとはしているが花も実もある映画群を送りだして、本物の映画ファンに愛されてきたのだが。