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「ガザ日記」は“奇蹟の記録”

土井敏邦ジャーナリスト
家族の死(撮影・ガザ住民)

【読者をガザの現場へ引き連れていく】

 450ページ近いこの大著を、私は2度読んだ。1度目は、この本が伝える現場の生々しい事態と「その後」を早く、もっと知りたいという欲求に駆り立てられるようにして読んだ。2度目は、自分は何にこれほど心を揺さぶられたのか咀嚼するため、心に響いた描写、文章を付箋に要約することで、私の記憶に刻みこむためである。本を読むスピードが極端に遅い私には、ずいぶんと日数のかかる作業だったが、そうする価値は十分あった。

著書「ガザ日記」表紙(撮影・土井敏邦)
著書「ガザ日記」表紙(撮影・土井敏邦)

 私がこの本に注目し、どうしても読みたいと思ったのは、私自身が10月7日にこの「戦争」が始まった直後から、インターネットを通して、現地のパレスチナ人ジャーナリストに定期的にインタビューを続け、その現地からの“生の声”を活字と映画で伝えているからである(岩波ブックレット「ガザからの報告」〈7月5日発売〉とドキュメンタリー映画「ガザからの報告」(上映会:7月6日/日比谷図書文化館)。私が伝えた戦禍のガザの様子、そこで生きる住民の声は、「ガザ日記」の著者アーティフ・アブー・サイフが伝える“ガザ”とどこが同じで、どこが違うのか、どうしても知りたかったからである。

 一言で言えば、私はこの「ガザ日記」にガザに引き連れられて行き、爆撃に晒されるその“現場”に立たされているような錯覚に陥った。そこで目の当たりにするのは、瓦礫の山と化したジャバリア難民キャンプやガザ市街であり、その瓦礫の下には老人や女性や子どもたちを含めたくさんの住民が埋まったままで、路上には、バラバラにちぎれた遺体、腐乱して地面に溶けた遺体、犬や猫に食いちぎられた遺体が放置されたままになっていて、あたりに死臭を放っている。「アブー・サイーダ家が所有する屋敷が攻撃され、20人が死んだ」「ミサイルが撃ち込まれ15人が死亡した」「家族80人が瓦礫の下で行方不明になっている」と淡々“と記述される。“死”がもう日常なのだ。筆者自身も、「死は簡単に捕まえに来る」「毎朝が贈り物のように感じられる。死亡者リストに自分の名前がなければ、追加の自由な1日が与えられたのだ」表現している。

 この「ガザ日記」がこれほど読む人の心に響くのは、筆者アブー・サイフ自身がジャバリア難民キャンプ出身で、破壊されるキャンプやガザ市のことを手に取るように知り尽くし、幼い時から共に生きてきた多くの家族、親戚、友人たちに何が起こったのかを詳細に描いていることが大きな要因だろう。それは外から来た「ジャーナリスト」が事態を「他人事」として俯瞰して描き伝えるのではない。この攻撃と破壊はまさに “自分事”であり、筆者自身のその実体験をありのままに淡々としかも詳細に記録していく。そのディテールを適格に表現する作家らしい筆力によって、読者をぐんぐんと“現場”に引き入れていく。“現場”に立たされた私たちは、筆者のすぐ横に立って、筆者の目線でガザの現場を疑似体験させられるのだ。

 前半の舞台、ジャバリア難民キャンプは、私の記憶に深く刻まれた場所である。オスロ合意が調印された1993年9月直後から、私はジャバリアのある家族の元に半年近く住み込み取材を続け、その後も数年間、この家がガザ取材の拠点となった。本の中に登場する地名に、「ああ、あの辺だな」と想像できる。同時に次々と殺される住民の記述が登場するたびに、私がジャバリアで出会ったたくさんの住民たちの顔が浮かんでしまう。「あの人たちは無事生き延びているだろうか?」と。

【両足と右手を失った娘】

 私がとりわけ衝撃を受けたのは一人の娘の話だ。筆者の妻の唯一の姉フダーの家がミサイル攻撃を受け、姉の一家は一瞬にして瓦礫の下敷きとなった。助け出されたのはフダー娘ウィサームとその姉のたった2人だけだった。ウィサームはガザ・アート・カレッジを卒業したばかりのアーティストだったが、重症を負い、両足と右手を切断せざるをえなかった。

筆者は病院のその姪を見舞う。

「叔父さん、私は夢を見ているのよね?」「私の夢は恐ろしいの!なぜなの、叔父さん?どうして?」「どうして死なせてくれなかったの?他のみんなと同じように死にたかった。同じ部屋にいたのに、どうして?」。病室を出た叔父の筆者は「泣きに泣いた」。

 薬も麻酔も与えられないまま、ウィサームは痛みに耐えられず、一日中、泣き叫んでいる。そして叔父に、「致死量の薬を注射してくれないか」と懇願する。筆者は「(神が)彼女が生きることを望まれた。それが彼の意志なのだ」と告げるしかなかった。

 その後、ウィサームはガザ市内のガザ市から脱出し、中部のヨーロッパ病院、さらにエジプトへと治療のために逃れる。しかし付き添う唯一の姉、27歳のウィダートは、両親、兄弟たち、すべてを失い、両足と片手のない妹の面倒を見ながら残りの人生を過ごされなければならない絶望感に、神経衰弱に陥ってしまう――

 これは「筆者の姪ウィサーム」だけの物語ではない。ガザには無数の「ウィサーム」が存在するのだ。それは「死者3万8千人、負傷者7万8千人」という数字では決して見えてこない、ガザの住民一人ひとりの生々しい“痛み”と“苦しみ”の象徴的な一例なのだ。

(家を破壊され家族が瓦礫に埋まった(撮影・ガザ住民)
(家を破壊され家族が瓦礫に埋まった(撮影・ガザ住民)

【生まれ育った“家”の意味】

 ガザでは現在、人口約220万人の75%がホームレス状態にあり、学校など避難所やテント生活を余儀なくされている。つまり170万人近い住民が住処を破壊されたことになる。しかし家を失うということがそこで暮らしてきた人にとってどういうことなのか、私たちが想像することは難しい。

 筆者アブー・サイフも、自分が生まれ育ったジャバリア難民キャンプの家を破壊され、失った。それを「ガザ日記」の中でこう表現している。

 「スナイダ地区はほとんど全滅した。私はこの場所を自分の手のひらのように熟知している。すべての建物を知っているし、それぞれの建物に誰が住んでいるかも知っている。誰がだれと結婚して何人子どもがいるかも知っている。彼らの争いも、自分の家族のことのように知っている。ここは私の街だ。ここで生まれ育ったのだ。消滅した時の多くは、私の子ども時代の重要な場面が展開した場所だ。1つひとつ路地で起きた物語を、何十も語ることができる。私は心の地図に、それらの路地を再び描き、境界線を引き直し、建物をスケッチし直すことができる」

 「故郷と呼んでいた唯一の場所が突然存在しなくなるのだから、再び未来について考えるなんてとてもできない」

「作家が育った家は、素材を汲みだす井戸である。私のどの小説にも、キャンプ内の典型的な家を描きたいときは、私たちの家を思い浮かべた。家具の配置を少し変えたり、通りの名前を変えたりしたが、こまかしはよそう。それはいつだって、私たちの家だったんだ」

「私は世界じゅうの多くの都市に住んだことがあり、訪ねた都市の数はさらに多い。だが、あの小さなみすぼらしい住居が、私にとって唯一の安心できる場所だった。友人や同僚はいつもこう尋ねる――なぜヨーロッパやアメリカに住まないの?チャンスはあるんだから。教え子たちも、口を揃える。――なぜガザに戻ったんですか?

 私の答えはいつも同じだ。『それはね、ガザには、ジャバリアのサフタウィ地区の名もないお路地に、世界のどこにも見つからない、小さな家が建っているからさ』

「もし世界の終末の日に、神がどこに送られたいかと尋ねたら、私は迷わず『あそこ』と答えるだろう。

もはや『あそこ』はない」

 「故郷の生まれ育った家」は人の人生にとって、それほど重く、重要な存在なのだ。そのことを筆者は自分の家を破壊された現実と向き合う心情を深く詳細に描くことで、その “喪失感”“絶望感”そして“怒り”と“悲しみ”を読む私たちに訴え伝える。

 先ほど「ホームレス約170万人」と私は書いたが、その1人ひとりが「実家を破壊されたアブーサイフ」なのだ。つまり筆者が表現する“喪失感”“絶望感”の170万倍の “痛み”と“悲しみ”がガザ全土に渦巻いているということなのだ。

ガザから遠く離れた、安全な国で暮らし、テレビニュースが伝える被害の数字や映像でガザの状況を知ったつもりになっている私たちは、本書の記述に打ちのめされる。

家族は瓦礫の下(撮影:ガザ市民)
家族は瓦礫の下(撮影:ガザ市民)

【なぜ記録するのか】

 それにしても、毎日、爆撃、砲撃に逃げ回る中、食料も水も事欠き、パソコンの充電もままならない中、疲労困憊し心身共に倒れ込んでしまうほどの日々の中、これだけの分量と密度の濃い記録を毎日欠かさず書き残し、海外に送り続けるその執念とエネルギーはどこから来るのだろう。

 アブー・サイフ自身は「あとがき」でこう書いている。

 「日記のつもりで書き始めたのではない。毎日、これを書いたのは何が起きているのかを他の人たちにも知ってほしかったからだ。自分が死んだ場合に備えて、日々の出来事の記録を残しておきたかったからだ。私は死の気配を何度も感じた。死が私の背後に不気味に姿を現し、肩越しに迫ってくるのを感じた。だからそれをかわす手段として私は執筆した。勝てないまでもそれに逆らう方法として、そして何よりも、気を紛らわす手段として書いているのだ。(中略)この本の中で、私は自分が愛し、失ったすべての人々に会うことができ、彼らと話し続けることができる。この本の中でなら、彼らがまだ私とともにいると信じ続けることができる」

 現在、現地には外国人ジャーナリストは入れない。だから地元のパレスチナ人ジャーナリストたちがガザの現場で起こっていることを映像と言葉で外の世界に命懸けで伝え続けている。そのためにジャーナリストやメディア関係者たちが払う犠牲は大きい。今年の6月下旬段階で、イスラエル軍に殺害されたジャーナリストたちはすでに100人を超えている。

 そんな状況の中で、人間と状況を適格に表現する並外れた能力を持ったパレスチナ人作家、しかも地元ガザにたくさんの家族、親族、友人・知人を持つ、いわばガザに深いルーツを持つ作家が、いつもはヨルダン川西岸で暮らしているはずなのに、偶然、仕事で帰郷し、この時期に現場に居合わせたことは“奇蹟”と呼ぶしかない。

 アブー・サイフという作家でなければ、ガザで何が起こっているかがこれほどリアルに世界に伝えられることはなかったろう。そういう意味でも、この「ガザ日記」はパレスチナの歴史の貴重な記録として刻み込まれ、全世界で長く後世に伝えられるべき“奇蹟の記録”といえるだろう。

 私はこの「ガザ日記」と出会うことで、パレスチナ・ガザを伝える同じ“伝え手”として、“パレスチナ”をなぜ伝えるのか、何を、誰に向かって、どう伝えるべきなのか――もう一度、その原点に立ち返るべきだと私は改めて教えられた。

 最後に、この「ガザ日記」をいち早く日本で出版する英断を下された「地平社」の熊谷伸一郎氏と、アブーサイフの真に迫る感動的な文章を、すばらしい翻訳で私たちに届けてくださった中野真紀子氏に心からお礼を申し上げたい。(了)

ジャーナリスト

1953年、佐賀県生まれ。1985年より30数年、断続的にパレスチナ・イスラエルの現地取材。2009年4月、ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』全4部作を完成、その4部の『沈黙を破る』は、2009年11月、第9回石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞。2016年に『ガザに生きる』(全5部作)で大同生命地域研究特別賞を受賞。主な書著に『アメリカのユダヤ人』(岩波新書)、『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)、『パレスチナの声、イスラエルの声』『沈黙を破る』(以上、岩波書店)など多数。

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