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メキシコから台湾へ。流浪の旅を続ける元タイガース戦士

阿佐智ベースボールジャーナリスト
台湾リーグ・台鋼ホークスで投手コーチ補佐を務めている福永春吾

 西アジアにプロ野球ができるらしい。ドバイ、パキスタン、インドなどに拠点をおいたチームでリーグ戦を組むとか組まないとか。本当に開催するのかどうかいまだに謎だが、どうやら仕掛け人はアメリカ人のグループのようだ。本気なのかどうなのか、ドラフトも行い、世界中から選手を指名している。

 そのうちのひとりが当惑しているという。今はもう台湾で指導者としての道を歩み始めているからだ。

高校野球から離脱、独立リーグから這い上がった不屈の右腕

 その男、福永春吾の元に久々に足を運んだのはこの夏の終わりだった。台湾第二の都市、高雄郊外にある、草野球場に毛が生えた程度のグラウンドに彼の姿はあった。2年前に独立リーグでNPB復帰を目指して汗を流していたときに感じた角はすっかり取れていた。すっかり丸くなった彼の表情を今思い出すと、彼がもうマウンドに立つことはないという決断をしたことをいまさらながらに思う。

 波乱の野球人生だった。高校時代は、強豪・金光大阪で将来を嘱望されていた。しかし、二度にわたる肘の疲労骨折が、輝かしい未来にまっすぐ伸びていると思われていた彼の野球人生の道のりを大きく変えてしまった。退部を決意した彼に学校に残る選択肢はなかった。彼の将来を案じた周囲の大人の勧めで通信制高校に進んだが、そこには無論野球部はなく、プレーからは遠ざかってしまった。

「やっぱり野球が好きだった」と福永は振り返る。トライアウトを受験し、独立リーグに進み、4年を経て阪神からドラフト6位で指名された。1位指名は、高校から大学へ進んでいた同級生、大山悠輔だった。いったん外れたはずのキラキラした野球エリートの歩む道に福永は戻ってきたのだ。ルーキーイヤーの2017年5月には、ドラ1の同級生よりも早く一軍の舞台に先発投手として立った。

 しかし、NPBでの野球人生は4年しか続かなかった。同期の大山が、スターダムにのし上がっていくのを横目で見ながら、2020年シーズンの終了とともに福永はタイガースのユニフォームを脱いだ。

海外に活路を求めて

 しかし、福永はあきらめなかった。当時まだ26歳。どこも悪くはない。現役続行を模索する福永に古巣の徳島インディゴソックスが手を差し伸べてくれた。つてを頼って台湾プロ野球の楽天モンキーズに話をもっていってくれた。話はトントン拍子に進み、入団が内定したものの、止むことを知らないコロナ禍が福永の前に立ちはだかった。ビザ発給のめどが立たず、台湾球界入りはお蔵入りとなり、福永は2021年シーズンをインディゴソックスのクローザーとして過ごすことになった。

 この時点で福永の目は国外に向いていた。いったんはクビになった身、どうせプレーを続けるなら、好きな場所へ行こう。彼の脳裏には、阪神入団前、インディゴソックス時代に四国アイランドリーグplus選抜の一員として参加した北米遠征のシーンがあった。小さいながらも野球を楽しむファンであふれていたスタンドと青々としたフィールドが忘れられなかった。

新天地・メキシコ

 メキシコから声がかかったのは、徳島でのシーズンが終わった後だった。5年ぶりの独立リーグで福永は11セーブを挙げ、1.64という無双と言っていい防御率を残していた。最近では、独立リーグの存在は太平洋の向こうまで伝わっている。野球選手を顧客とする代理人たちは、アメリカであぶれた選手たちを日本の独立リーグに売り込んでくるのだが、インディゴソックスは、彼らの「取引先」のひとつだったのだ。その代理人のひとりが、メキシカンリーグのチームが日本人ピッチャーを探しているとの情報をもってきてくれたのだ。ドゥランゴ・ヘネラレスという聞いたことのないチームのキャンプの招待選手というものだったが、福永はふたつ返事でOKした。

 航空券が送られてくると思っていたが、自分で手配してくれという連絡が入った。後で精算するからと言われたものの、経費や、時としてギャラも踏み倒されるというメキシコ野球についてのブラックな噂も耳にしていたので少々不安だった。それでも行かなければ契約も取れない。自腹を切ってメキシコに向かった。弱小球団と聞いていたが、航空券代は到着後、きちんと支払ってくれた。

「ドゥランゴは弱小球団でしたけど、そのあたりはしっかりしてました。給料の未払いとかもなかったですし」

 2022年3月半ば、福永はヘネラレスのキャンプに参加した。

 温暖な気候からウインターリーグも行われるメキシコ。そのため、メキシカンリーグの多くの球団は、シーズン前のキャンプを本拠地で行う。資金力のないヘネレスに他の土地でキャンプを張る余裕などあるはずがなく、地元ドゥランゴで実施する。それもシーズンで使用する町はずれのスタンド付きの球場は使用せず、郊外の練習専用のグラウンドで行った。

「本拠地球場はちょうどシーズンに向けて改装してたというんで、別の場所で練習しました。なんか広い空き地みたいなところでした。ちゃんと球場はあるんですけど、周りはもうだだっ広い、クラブハウスも何もないところでした」

 メキシカンリーグは、アメリカではマイナーリーグ扱いになっているものの、曲がりなりにもメキシコという国のトップリーグである。アマチュアが使用するようなグラウンドでのキャンプに、福永は驚くとともに、メキシコという国での野球のポジションを感じた。

「思いましたよね。『独立リーグと変わらんやん』って(笑)。でも、そのグラウンドの後ろになにもない砂漠みたいなのが広がっているのを見て感じました。『俺、メキシコにおるんやな』て」

 メキシコでは選手のほとんどは球団の用意するホテルでシーズンを過ごす。それはアパートであったりもするのだが、国土が広く、トレードも日常茶飯事とあっては、選手は、そこが自分の生まれ育った土地でもない限り、所属する球団の本拠に家を構えることはなかなか決断できない。おまけに夏のシーズンが終わると、今度は冬のシーズンが待っている。メキシコのプロ野球選手の現役時代はまさに旅から旅の生活なのである。

 一部ベテラン選手は、家族を呼び寄せ、球団にあてがわれた一軒家に住むこともあるが、彼らは例外で、福永たちは、キャンプの時は郊外のホテルから毎日球団のバスに15分ほど揺られ、グラウンドに移動した。開幕すると、アパートに移った。個室は基本的になく、2人1組で部屋があてがわれた。

 キャンプでの練習量は、日本に比べ圧倒的に少なかった。ウォーミングアップからキャッチボールで体を慣らし、ブルペンに行き、ランニングをすると2時間くらい経ち、それで終わりだった。あとは個々にトレーニングをすればキャンプの一日は終わった。

 練習やトレーニング方法はアメリカ流だったが、シーズン前の流れは、チーム練習はそこそこに、オープン戦をどんどんこなしてゆくアメリカの「スプリングトレーニング」より、日本のそれに近かった。キャンプ自体は2週間と日本の約半分だが、その後は地方球場を巡業するオープン戦に突入していく。対戦相手は地理的に近いチームがほとんどだった。普段トップリーグの試合を目にすることができないとあってスタンドには多くのファンが詰めかけていた。

 この間、福永には開幕ロースター入りの保証はなかった。あくまでキャンプの「招待選手」、日本で言えばテスト生という立場だった。ここで単にいい成績を残すだけではダメで、元メジャーリーガーを含む、アメリカやドミニカ、ベネズエラからの「助っ人」選手たちと8ある外国人枠を争わねばならない。「外国人枠」と言っても、メキシコ系のアメリカ人はだいたいが二重国籍なので、この枠には入らない。その結果、メキシコのプロ野球でありながら、外国人選手の方が多いというチームもある。そのことについてメキシコ生まれの選手から不満が上がることもあるというが、福永のいるヘネラレスではそういう雰囲気は感じられなかった。ともかくも、そういう環境の中、枠を争うライバルが誰なのかも今ひとつわからないまま、福永は自分の調整を淡々と進めていった。

ヘネラレスの本拠地、ドゥランゴの球場
ヘネラレスの本拠地、ドゥランゴの球場

勝ち取ったロースター

 キャンプ開始当初60人以上いたメンバーは日に日に減っていった。

 その昔、現在のメジャーリーグブームの端緒となる映画が日本を席巻した。その名も『メジャーリーグ』。古くからのメジャーリーグファンなら誰でも知っているだろう。その映画にこんなシーンがある。スプリングトレーニングの一日が終わり、ロッカーの前に立った選手たちは、深刻な顔のままなかなか扉を開けない。なぜなら扉を開けて、その中に赤色だったと思うが、紙が貼られていると、そのロッカーの主は荷物をまとめてフィールドを去らねばならないからだ。その話を福永に振ると、その映画の公開後に生まれた彼は、こう返してきた。

「その映画は見たことないですが、メキシコではそもそもロッカー自体ありませんでした。多分、クビになる選手は個人的に通達されていたと思います。僕もシーズン開幕後、そうなるんですけど」

 去る選手を見送ることもなかった。次の日、練習に行ったら、いつの間にか見知った顔がいないということの繰り返しだった。後で、メキシコ国内の下部リーグに行ったと風のうわさが入ってくるだけだった。福永のもとには何の連絡も入ってこなかった。

 オープン戦が終わり、いよいよ開幕の日。GMからの電話が鳴った。開幕のベンチ入りは外国人投手の枠の関係で見送られたが、チームロースターには入ったということだった。最初の遠征には帯同しないので、次のホームシリーズに向けて準備をしておいてくれとのことだった。

「オープン戦で結果も出てたんで、そこは心配してませんでした。初戦だけ点取られたんですけど、それ以降全部、無失点だったんで」

この夏、インタビューに答えてくれた。
この夏、インタビューに答えてくれた。

 開幕メンバーに目を通すと、最後までオープン戦に帯同していた数名の名が消えていた。

 出番がやってきたのは、チームが開幕カードのビジターゲームから帰って来ての2カード目、3連戦の最終戦のことだった。当日の観衆は4368人と記録されているが、内野スタンドしかない収容5000人弱のこの町の球場では「大入り満員」だった。

 先発ピッチャーが初回に5点を失い、続く2回にも2失点を喫した後を受けてのマウンドだった。日本なら「敗戦処理」というところだが、レギュラー選手のほとんどが3割をマークし、投手の防御率が3点台なら上々というメキシコでは試合序盤のこの程度なら試合を諦める点差ではない。実際、この試合は終わってみれば10対9での惜敗。結果としては、この試合ヘネラレス投手陣で最長の2イニング3分の2を投げた福永の2失点が響いたかたちとなった。

 初登板に関しては、「なんとなく覚えている」程度だという。球場の雰囲気が日本とはずいぶん違うなと感じたくらいだという。

「基本、打ち合いにしかならないんで。いつも4時間ゲームです(笑)。すごく間延びするなって思いました。その分球場も、お客さんが暇にならないようにすごい工夫してるなっていうのは感じました。だから田舎の小さい球場ですけど結構盛り上がるんですよね。点が入ると、場内に流れる音楽に合わせてみんな踊るんですよ(笑)」

 無論、相手打者のことなど全く知らなかった。結果的に失点し、チームも負けてしまったものの、福永は手ごたえはつかんだと振り返る。

 次の登板は1週間ほど後のロングリリーフだった。相手は強豪モンテレイ・スルタネス。リーグ優勝10回という数字はメキシコシティの名門、ディアブロスロッホスの16回、かつて首都でそのディアブロスと人気を2分していたキンタナロー・ティグレスの12回の後塵を拝しているが、その人気面においては両球団をはるかに凌いでいる。メキシコ最大の収容2万2千人を誇る本拠地、モンテレイスタジアムは、2023年4月にメキシコシティで開催されるまで、メジャーリーグの公式戦が開催された唯一のスタジアムだった。初登板よりこの試合の方が記憶に残っているというのも、相手がメキシコ屈指の人気チームだったからかもしれない。

「相手の方に遠征に行くんで、ビジターの方が覚えてますね。とにかく無茶苦茶遠かったです。バスで12時間ぐらいかかったんじゃないですかね。朝出て着いたのは夜でしたから。相手が強い時は、事前にいろいろ情報が入ってくるんです。メジャーリーガーばっかりだぞとか。でもモンテレイは球場入って、すぐに分かりました。金持ってるなって(笑)。そういう球団は、うちみたいな貧乏球団と違って、やっぱりメジャー上がりの選手ばっかりですし。スタンドも大きいし、フィールドも他とは全然違う。試合中の雰囲気も良かったです。『ああ、海外で野球やってるんだ』って感じられましたね。ホームのドゥランゴはローカル過ぎて、アメリカの独立リーグみたいな感じでしたから」(つづく)

※写真は全て筆者撮影

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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