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[高校野球・あの夏の記憶]"がばい旋風"が吹いた2007年夏を覚えていますか

楊順行スポーツライター
2007年夏の決勝、逆転満塁本塁打を放って生還する佐賀北・副島浩史(写真:岡沢克郎/アフロ)

 2007年の夏、甲子園に「がばい旋風」が吹いた。

 20代後半以降の方なら、ご記憶にあるだろう。当時、タレントの島田洋七による『佐賀のがばいばあちゃん』という著作がベストセラーになった。「がばい」とは、佐賀の方言で「とても、非常に」という意味。優勝した佐賀北の勢いは、まさに「がばい」。そのうえ、島田洋七の出身校が決勝の相手・広陵(広島)なのだから、できすぎだった。もっとも、佐賀の高校生年代なら「“がばい”の“ば”を省略して“がい”という」(副島浩史三塁手)そうだが。

 とにかくミラクルの連続だった。7年ぶり2回目出場の佐賀北は、開幕試合で福井商を下してこれが甲子園初勝利。宇治山田商(三重)との2回戦は延長15回引き分け再試合となり、これも制すると、前橋商(群馬)も倒してベスト8に進出した。そして「練習試合なら何回やっても勝てない」(百崎敏克監督)という帝京(東東京)との準々決勝は、延長13回の激戦をモノにし、夏前の練習試合で圧倒されている長崎日大にはタイムリーなしで競り勝った。そして決勝。7回までわずか1安打に抑えられながら、8回、副島の満塁弾で劇的な逆転勝ちだ。

 県立の普通校。強豪私学とは練習環境も素材も、天と地ほどの違いがあるが、「強い私学を倒すのがおもしろい」(市丸大介主将)という言葉そのままの快進撃だ。引き分け再試合を制するというドラマ性もあり、佐賀北は甲子園に愛されたようだった。

 01年、神埼(佐賀)を春夏の甲子園に導いている百崎監督が母校・佐賀北に赴任したのは、04年のことだ。「神埼のように徹底的に鍛えることはできませんが、選手は比較的そろっていると感じました」(百崎監督)。私学に対抗するにはまず基礎体力と、徹底したトレーニングの日々が始まった。だが、優勝する3年生が入学した05年には、午後7時45分には完全下校という方針に。一日の練習時間は、長くても3時間程度になる。それでも、トレーニング重視は変わらなかった。たとえば、済美(愛媛)の練習法を参考に採り入れたスーパーサーキット。腕立て、背筋など40種類のメニューを、それぞれ1分行い、30秒休んで、また1分行う。これをたっぷり1時間。ときには練習試合の前、またノックでミスが出たときにも容赦なく行われた。さらに、

「7時45分下校、といってもみんなこっそり残って練習しました。電気を消して真っ暗ななかで走ったり、素振りやトレーニング。暗くてもできることをやった」(副島)。

 06年夏に新チームがスタートしたときには、福岡の強豪と積極的に練習試合を行った。福工大城東、西日本短大付、東福岡、筑陽学園、大牟田……これらといい勝負ができれば、佐賀では十分戦える、という百崎監督の考えだ。それとともに、神埼での甲子園体験を選手たちに話し、選手たちも甲子園を意識するようになる。だが、なかなか結果が出ない。秋は佐賀学園に初戦負けなのだ。豊富なトレーニングをこなして臨んだ07年春も、2試合目で敬徳に敗れた。

監督との交換日記は不満たらたら……

 最終学年に、こんなことでいいのか。限られた練習時間なら、トレーニングよりもっと技術練習をするべきじゃないか。選手たちは、監督との交換日記に不満をぶつけた。メニューを考えるべきだ。あの采配はおかしいと思う。勝てないイライラもあり、ぎくしゃくしかねない雰囲気だった。「そこで“不満をいえるのは、いいことだ”と監督はいうんですよ。大きい人だと思いました」。松冨寿泰部長はそういうが、百崎監督、「いや、さすがに"そこまでいうか"という内容もありましたけどね」と苦笑する。

 やがて、サイド気味に改造した左腕・馬場将史が安定すると、久保貴大とのリレーが定着。6月のNHK杯で優勝してからは軌道に乗った。過酷なトレーニングで築いた土台に、技術が追いついてきたわけだ。そして、佐賀大会を突破。「もし負けていたら、佐賀インターハイの手伝いでした。陸上競技の駐車場の整理係です。それがないだけでもよかった」(辻尭人一塁手)というから笑わせる。

 百崎監督はいう。

「神埼での経験などを話しても、自分たちの現実と差がありすぎ、最初は反感も買ったと思います。だけどだんだん手応えをつかみ、県大会の準決勝で佐賀商に勝ったあたりからは、試合での動きなどが目に見えて違ってきた。甲子園でも、持っている力を出せればいいとこいくかも、と内心では思っていたんです」

 たとえば、準決勝の長崎日大戦。2点リードの5回の守り。無死一塁からバントが想定される場面で、一塁の辻が猛チャージ。走者のリードが大きくなったところで田中亮二塁手がタイミングよく一塁に入り、けん制で走者を刺している。田中によると、「甲子園が僕らを変えてくれたといえるけど、甲子園でもいつものプレーができたともいえる」ということになる。宇治山田商との初戦や帝京戦では、センターの馬場崎俊也が、いずれも延長に入ってからスーパーキャッチを連発。小学生時代には神埼の甲子園出場をアルプスで応援し、神埼中時代には百崎監督の指導方針を目の当たりにして佐賀北進学を決意した。

「県大会の準々決勝でも、抜ければ同点という打球を馬場崎がファインプレーしてくれたんです。山田商のときも思わず、“馬場崎のスーパープレーがまた出たぞ”とベンチで盛り上がりました」(百崎監督)

 自ら「僕は守備の人」という馬場崎だが、帝京では、延長13回2死からのヒットがサヨナラを呼んでもいる。

「94年の夏に優勝した佐賀商が、開幕戦のクジを引いたことは知っていました。それが、僕たちもたまたま開幕の試合でしょう。“まさか、そがんことあるかい”とみんなでいっていたのに」とはその馬場崎だが、まさに佐賀商と同じ開幕試合からの優勝である。延長2試合を含む7試合、史上最長の73イニング。しかも、決勝戦が満塁ホームランで決まったのも同じだった。

 3点差を追う決勝の8回、1死満塁。レフトスタンドへ「マンガのような」(辻一塁手)逆転満塁ホームランを放ったヒーローは副島である。1回戦の大会第1号、帝京戦の2本目に続く自身大会3本目。

「公式戦で打つのも初めてなのに、まさか……信じられない」。それはそうだろう。なにしろ試合前には、「僕らが優勝するシーンを想像すると、華がないですね」と笑わせていたのだ。その男が、これ以上ない華々しさでエンディングを飾った。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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