日本を変えた南岸低気圧とノルマントン号の海難
日本南岸を低気圧が東へ進んでいますが、130年前の明治19年(1886年)10月24日、日本南岸を東進した低気圧は、もう少し沿岸沿いを発達して通過したことにより、紀伊半島の熊野灘でノルマントン号が遭難しています。
ノルマントン号の遭難
ノルマントン号は、1532トンのイギリスの汽船で、横浜と神戸を結んでいました。
青山孫一郎氏が明治19年11月に良明堂と信文堂から出版した「紀井の海底の水屑」によると、次のような内容が記されています(「紀井の海底の水屑」は、昭和12年に岡田武松中央気象台長が著した「測候瑣談」で紹介されています)。
明治19年10月23日、3回目の航海として横浜を出港しましたが、積荷はニューヨーク向けの茶、上海向けの海産物と雑貨などで、乗客は日本人25名でした。明治22年に東海道線が開通するまで、京浜と阪神間を往来する人のなかには、貨物船をよく使う人もいました。そして、乗員はイギリス人のドレーキ船長以下39名です。
ノルマントン号は、御前崎へさしかかるまでは天気が良好でしたが、16時頃から荒れだしています。
測候瑣談でいう大島は、和歌山県串本町潮岬沖合いにある紀伊大島のことで、平成11年からは「くしもと大橋」で紀伊半島と繋がっています。
船長を含めた乗員は、4隻のボートで脱出し、2隻は紀伊半島南端の和歌山県・串本に漂着し、残りの2隻も荒波をおして出航した串本の9隻のカツオ船によって救助されています。
このため、乗員26名が助かっていますが、日本人乗客は誰も助かっていません。
この海難を審判した神戸のイギリス領事館は、船長の「逃げろといったのに日本人が英語がわからず逃げなかった」という主張を採用し、船長以下の全員を無罪としています。これに対し、そんなことはありえない、船長等が乗客を見捨てて逃げた、日本人蔑視だという世論が高まり、日本政府は兵庫県知事に船長等を殺人罪でイギリス領事館に告訴させています。
しかし、裁判は横浜のイギリス領事裁判所に移され、判決は船長のみが職務怠慢罪で禁獄3ヶ月という軽いものでした。
この事件を契機に、領事裁判権の完全撤廃や、条約改正を望む国民の声が高まり、明治政府を大きく揺さぶる大事件となっています。そして、明治27年の領事裁判権の完全撤廃など、江戸時代末期に欧米列強と結んだ不平等条約の改正が進んでいます。
明治19年10月24日の低気圧
中央気象台が作成・即日配布している天気図によると、明治19年10月24日21時は、南岸には低気圧があり、北日本の東海上が高気圧があるという大雑把なものです(図2)。
海上のデータがありませんので、このときの低気圧の位置はわかりませんし、単なる低気圧ではなく、台風から変わった低気圧、あるいは、台風そのものかもしれません。ただ、発達した低気圧が日本の南海上を東進したというこがわかるだけです。ただ、大荒れになっているということで、警報が発表になったことが天気図の隅に記入されています(図3)。
警報は小林一知(第2代中央気象台長)の下で、暴風警報業務を日本政府に提言して採用されたイ・クニッピングが発表したことを示すサインがあります。
ただ、海上の観測データがない大雑把な地上天気図をもとに発表する警報です。実用的にはほど遠いものですが、その警報でさえ、海上の船舶に情報を提供する手段が全くないときのノルマントン号の海難です。
トルコ軍艦・エルトゥールル号
ノルマントン号の救助活動で、英語の必要性を感じた串本地方では、英語教育が始まっています。明治20年2月から串本小学校で大人向けの夜学が始まり、その後、小学校で英語の授業が始まりました。全国的にみても、かなり早い小学校での英語授業です。
そして、ノルマントン号事件の4年後の明治23年9月16日、トルコの軍艦・エルトゥールル号が熊野灘で遭難し、串本の対岸にある大島の樫野灯台下の岩礁に乗り上げ、540人が亡くなるという海難が発生します。生存者はわずか69名、そのうち負傷者が63名もいました。大島の人たちは漂着した負傷者を救助し、衣食を提供しています。そして、遺体の収容に努め、約220名の遺体を遭難墓地に埋葬しています。
この話は、トルコの教科書にも載っており、トルコと日本の友好関係の絆となっています。出発点となっています。
昭和12年に遭難墓地の改修が行われた時、大理石の遭難碑が建てられ、昭和49年にトルコ記念館が建てられています。今でも、駐日トルコ大使は、日本に赴任すると、すぐに串本町にあるトルコ軍艦記念碑などを訪問しています。