岩神六平が語る〈マタイ受難曲2021〉【〈マタイ受難曲2021〉証言集#15】
2021年2月、画期的な“音楽作品”が上演されました。その名は〈マタイ受難曲2021〉。バロック音楽を代表する作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハによる〈マタイ受難曲〉を、21世紀の世相を反映したオリジナル台本と現代的な楽器&歌い手の編成に仕立て直し、バッハ・オリジナルのドイツ語による世界観から浮かび上がる独特な世界を現代にトランスレートさせた異色の作品となりました。このエポックを記録すべく、出演者14名とスタッフ&関係者6名に取材をしてまとめたものを、1人ずつお送りしていきます。概要については、「shezoo版〈マタイ受難曲2021〉証言集のトリセツ」を参照ください。
♬ 岩神六平の下ごしらえ
買ってもらったフォークギターでPPM(ピーター・ポール&マリー、1960年代に活躍したアメリカのフォーク・グループ)やブラザース・フォア(アメリカの4人組フォーク・グループ)の曲を弾いていた高校生が、なぜか学校で出場することになったクラス対抗合唱コンクールの“指揮者”に指名され、ダーク・ダックス(日本の4人組コーラス・グループ)のヒット曲〈銀色の道〉(1966年)を振ることになったのもいまでは恥ずかしい想い出。
家では〈禁じられた遊び〉に憧れて練習に励むものの、音楽の道を志すわけでもなく、高校時代は新宿のクラシック喫茶に入り浸っていた。卒業すると同時に、封印していたジャズの店に飛び込んだのが、新宿ピットイン“ティールーム”だった。ジャズクラブのほうはまだ怖かったので……。
1965年の年末にオープンした新宿ピットインは、翌年からジャズのライヴを提供する店となり、1968年から69年にかけて新宿通り側にレコードをメインとしたピットイン“ティールーム”を出店(ライヴもやっていて、後に“サムライ”に改称)、ジャズクラブ2階の倉庫を改装した“ニュージャズホール”を展開する。1967年から状況劇場と組んで演劇の場としても手を広げ、1968年には深夜の部をシアターピットインと衣替えし話題となるが、演劇、日本のジャズそれぞれが大きく変動する時期でもあり、長くは続かなかった。そんな時代に出入りを始め、ひたすら“ティールーム”と“ジャズクラブ”、たまに“ニュージャズホール”を行き来して、当時の日本のジャズの真っただ中で過ごした。あとはアルバイトと学生運動(厳密には「予備校生運動」とのこと)に明け暮れていた。
そうこうするうちに、ベースレスのフリージャズトリオを結成し活動を開始する山下洋輔のマネージャーから声をかけられて手伝うようになる。まもなく、学生運動が下火になった1970年代の新宿と距離を置くようになり、自転車に乗って西に向かって日本一周のつもりが広島でアルバイトを始めたら居ついてしまって、山下洋輔トリオを呼んだり、相倉久人氏の講座を企画したり、ジャズを中心とした活動をしながら何年かを過ごす。
その後再び山下洋輔の事務所に呼び戻される。当時、山下洋輔の事務所はジャズよりむしろフォークやポップス系のマネジメントと組んだりしていたが、ほどなく新進気鋭のポップス・グループ“シュガー・ベイブ”のスタッフと組んで新しい事務所を立ち上げる。日本の若いジャズミュージシャンも手掛けるようになり、独立して有限会社ジャムライスを設立。現在は岩神六平事務所として主にコンサート、舞台の企画・制作を行なっている。
♬ 10年ほど前からステージのお手伝い
shezooさんを最初に紹介されたのは、1980年代の中ごろかな。お姉さんの祐希さんがヴォーカルのユニットでのレコード・デビューというタイミングのとき。これは三田晴夫(現・有限会社スーパーボーイ代表取締役)が仕掛けていたんだと思います。
その活動がひと段落したあたりからあまりお目にかかることがなくなったんだけれど、10年ぐらい前にshezooさんから連絡があって、それで彼女がリーダーのグループ“トリニテ”のお手伝いをするようになったんです。
そんな感じで舞台監督やホールの限られた機材でPAをしてあげたりしていたんだけど、そのうちにshezooさんから〈マタイ受難曲〉をテーマにしたものをやろうと思っていて、それを手伝ってほしいと言われて、それが数年前。そのころは年に2〜3回ぐらいのペースで、いろいろな演奏者に声をかけて横濱エアジンで実験的にやっていたんだけど、ゆくゆくは“コンサート”という規模にしたいという前提で、お互いに準備をしていた、という感じです。
♬ 「お金はないけどなんとかして!」
実際に“コンサート”の話が具体化したのは2019年だったと思う。だいたいね、僕が手がけるコンサートの制作って、潤沢な予算でできるなんてことはなくて、ほとんどは「お金はないんだけど岩神さんなんとかして!」というのばっかりで……。
ただ、企画によってはホールと共催もできるから、今回も〈マタイ受難曲〉の企画に賛同してくれるホールはないかと探していて、それで豊洲文化センターが候補に挙がったんです。あのホールは音も良いしピアノもファツィオリの良いのがあるからね。
それでなんとか実現しそうになっていたんだけど、当初は2020年の7月ぐらいにやれないだろうかって言っていたんです。だったらせめて東京オリンピック2020が終わってからならどうかということで調整していたんだけど、年内はまだコロナが落ち着かなかったので、年が明けて2月でようやく落ち着いた、ということだったと思います。
それでも、また緊急事態宣言になったらどうするのか、そもそもやれたとしてもお客さんが来てくれるのか、客席の収容人数は何%稼働なのかというのも見通しが立たない状態で、最終的には収容人数の半数にして開催、ということにホール側とも合意してチケットを売り出したんだけど、それからも8時終演みたいな制約が出てきたりして、開演時間を変更するタイミングで払い戻しにも応じたりと、もうタイヘンでしたね。
♬ 押さえていた予備日を使った2日間公演に
僕は“制作と舞台監督”という立場で関わることになったんだけど、コロナ禍のそんな状況だったから予算もちゃんと立てられないし、そもそも押さえることができた豊洲シビックセンターのホールにしても1日公演で100%稼働で満席だったらなんとか予算に収められるだろうと思っていたのに、いろいろな制約がでてきたからとりあえず2日押さえておきましょうということになって、収容人数制限がかかっちゃったものだから、1日ではとても採算が取れないことが見えてきた。
それで、2日間押さえているなら2日公演にしましょうということになった。もちろん、補助金とかがなかったらぜんぜん無理な計画だったんですけどね。補助金にしても、最初に申請した東京都がダメで、文化庁に申請したやつがようやく公演後に通ったりしてるからね。
“舞台監督”というと、自分の音楽論とか演劇論をもっていて、みんなを引っ張っていくようなイメージがあるかもしれないけれど、そうじゃなくて、アーティストがやりたいことを下ざさえする役割というか、アイデアを上手く良いかたちで“着地”させていくというのが、僕が“舞台制作”に関わる場合の“仕事”だと思ってやっているんですよ。
もちろん、アーティストのマネジメントという立場に立てば、先頭に立って仕切らなければならないこともあるんだけどね。
実は、コロナ禍をイメージさせる内容のストーリー部分について、最初のころはあまり納得してなかったんですよ。ゲネプロ(本番同様に舞台上で行なう最終リハーサル)まで「どうなるのかな?」と思っていたけど、そのへんは次第に解消されていった。それが本番の4日前のことで、ほかの出演者同様、僕もそこでようやくこの〈マタイ受難曲2021〉の全体像を知ることができたわけです。
まず初日を迎え、まだ多少あった「?」も、2日目にはかなり解消されていて、安心した。終演後、ロビーで出てくる人の顔を見ていると、わかるじゃないですか。それでホットしたんです。
僕のなかでは、まだ解消されていないクエスチョンマークが残ってはいるんだけど、だからダメだったというわけじゃなくて、この企画は“答えにたどり着く”ものじゃなくて、“どこかへ向かっていくもの”なんじゃないかと思っている。だから、またshezooさんが動こうとするのなら、手伝うしかないのかな、って。いや、「喜んで!」やらせていただきますよ。