【京都市】南区「島原」は寛永17(1640)年六条柳町から移転した遊里!東門だけでなく西門もあった?
京都の花街「島原」の西側に建てられた門跡に関する「島原西門碑」があります。
「島原」は寛永17(1640)年六条柳町から移転した遊里。
『壬生寺』などが近いことから、幕末期には勤王の志士たちや新選組などが出入りしていたことでも知られるこのエリア。
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また、京都には五花街が今でも存在します。京都花街組合連合会に加盟している花街として,祇園甲部,宮川町,先斗町,上七軒,祇園東の5つの花街があり総称して五花街と呼んでいます。
しかし、「島原」も花街です。1976年に京都花街組合連合会を脱会し、現在は「輪違屋」のみが正式なお茶屋の鑑札を有し、置屋兼お茶屋の営業を行っています。
島原について書いた過去記事があるので、そちらもご参照ください!
「島原」は壁や堀などで囲まれ出入り口は東門のみでした。
しかし享保17年(1732年)に西門を設置、天保13年(1842年)にこの地に移りました。
西門は現在では存在せず、西門跡の碑が見られるのみです。
その碑は、『島原住吉神社』の角にあります。
『島原住吉神社』は江戸時代には、日本最初の遊郭である島原の鎮守の神さんとして信仰され、良縁のご利益があるとして参詣者が絶えなかったそう。
ご祭神は住吉大明神。島原の鎮守社として大切にされてきました。
住吉屋太兵衛が自宅に住吉大明神を祀ったのが起源です。その後1732年(享保17年)に島原の北西に移されました。
「新撰組」のメンバーもこの前を通りお参りしたであろう『島原住吉神社』、そして「島原西門跡」碑をみることでその時代にタイムトリップしたような気分になりますね!
島原西門跡碑
京都府京都市下京区西新屋敷下之町