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ラーメンの人気店「なんつッ亭」を家系「せい家」創業者が買収 ラーメン新時代が到来か

千葉哲幸フードサービスジャーナリスト
「なんつッ亭」のラーメンの基本は黒マー油ラーメン(なんつッ亭提供)

ラーメンは日本人の国民食である。ラーメン店の市場規模は6000億円を超える大きな存在(6019億円/『経済センサス』2016年)。日本での食事を楽しみにしているインバウンドにとって一番の人気はラーメンである。このようにラーメンの人気を高いレベルにしているのは、スープのバラエティが豊富であるからだ。

この豊富なバラエティの中に「家系ラーメン」がある。濃厚な豚骨醤油スープのラーメンで1974年横浜市内に誕生した店が発祥。同店は大繁盛店として名を馳せて家系ラーメンの弟子が育っていった。また、一方ではそれに触発された若者たちが続々と家系や個性派のラーメン店を開業していった。

ここで紹介する「なんつッ亭」と「せい家」もこの店に触発されて成長したチェーン店の一つ。「なんつッ亭」はやんちゃな少年だった古谷一郎氏(55)が1994年9月神奈川県秦野市に創業、極めて独創的な「黒マー油ラーメン」をつくり上げてラーメンファンの間では絶大な人気を博した。「せい家」は山内勝彦氏(66)が1998年2月東京・経堂に創業した。

ここでの話題の中心となるのは「せい家」の山内氏のこと。山内氏がラーメンの世界に入るまでは紆余曲折の道のりがあった。そして、いま新しいラーメン文化を生み出そうとしている。

神奈川県秦野市にある「なんつッ亭」本店は月商900万円の大繁盛店(筆者撮影)
神奈川県秦野市にある「なんつッ亭」本店は月商900万円の大繁盛店(筆者撮影)

トップセールスマンからラーメンへ

山内氏は早稲田実業でピッチャーを務めたが、野球の名門に進まずにパイロットを目指した。しかしながら、この夢は果たすことができずにフリーターとなった。26歳の時に就職情報誌で見つけた事務機器の販売会社に入社。ここでは入社3年目にしてトップセールスマンとなった。このように目覚ましい業績をつくる人物であったことから社長から特に大きな期待をかけられていた。

36歳の時に家系ラーメン発祥の店と出合った。この店は11時開店から20時閉店までの9時間営業、20坪で1日60万円を売っていた。山内氏はこの繁盛ぶりを見て、家系ラーメンでの起業を思い立ち「この店を東京に出したい」と考えた。

ここのオーナーは山内氏の知人で、山内氏は「ここで修業をさせてほしい」と申し出た。しかし、オーナーから「修業をしなくていい。あなたにはここの社長になって店舗展開をしてほしい」と言われた。そして山内氏は東京に1店舗、横浜に2店舗を出店して、家系ラーメンの人気を高めていった。

山内氏は雇われ社長を6年間勤めあげた42歳の時に「せい家」を独立開業した。店名の由来は「成功」の「せい」、「誠心誠意」の「せい」、「勢い」の「せい」。場所は東京農業大学世田谷キャンパスに通じる農大通りの路地裏。人通りが多いものの店舗の存在が分かりづらい。そこでメインの通りに看板を置くなどしてから繁盛店となった。基本のラーメンは1杯500円。この親しみやすい価格を守り通して、新規出店をするたびに「せい家」は家系の繁盛ラーメン店チェーンとしてよく知られるようになっていった。

「せい家」は東京・原宿に出店したことでここが繁盛店のショールーム的な役割を果たすようになり、FCでの開業希望者が一段と増えるようになった。店数が増えていき、「せい家」の事業は、ラーメン店を運営する会社の「トップアンドフレーバー」と、これらに人材を送り込む会社「せい家」の二本立てで取り組むようになった。こうしてピーク時は43店舗を展開していた。

消費税が引き上げられたことから、2018年に基本のラーメンの価格500円を550円に引き上げた。すると客数は漸減する傾向を示し、直営店も加盟店も閉店するところが見られるようになった。

店舗を売却したのち時代はコロナ禍に

その後、ラーメン事業で勢いを増していた飲食企業が「せい家」の運営会社「トップアンドフレーバー」を買収する話が舞い込んだ。しかし、この話は双方が合意に至らず立ち消えになった。

山内氏はこれがきっかけとなり本格的に事業譲渡を検討するようになった。このことをM&A仲介業者に相談したところ、買主がすぐに表れた。この会社は「せい家」によって新しくラーメン事業を推進しようとしたようだ。こうして2019年12月「トップアンドフレーバー」はこの会社にスムーズに事業譲渡された。

山内氏は買主から「2年間飲食事業に関与しない」という行動制限が設けられた。こうして次の事業の構想を練る充電期間に入った。そして、2020年3月からは本格的なコロナ禍となった。飲食業は厳しい経営環境に置かれるようになったが、山内氏は充電期間の日々。山内氏はこの当時、友人から「お前は神様の声を聴いていたのか」とうらやましがられたとのこと。

さて、山内氏は2年間の行動制限が明けた。コロナ禍も落ち着いてきた。そこで山内氏は再びラーメン事業者として生きていこうと決意した。「私の人生はラーメン30年、この経験値を新しい人生に活かしていきたい」(山内氏)。そこでラーメン事業を1店舗からスタートするのではなく、複数店舗を展開しているブランドを買収して事業を再構築していこうと考えた。

「新なんつッ亭」でラーメン新時代

そこでM&A仲介業者に相談を持ち掛けたところ「なんつッ亭」を紹介された。冒頭で述べた通り「なんつッ亭」の創業者、古谷一郎氏は少年時代にやんちゃをしていて、暴走族にも属していた人物。それが27歳のときに家系ラーメン発祥の店の繁盛ぶりと出合って、ラーメン職人となるべく九州に修業に向かった。その一年後、地元の神奈川県秦野市で「なんつッ亭」をオープンした。

神奈川県秦野市を貫く幹線道路、国道246号線沿いにある「なんつッ亭」本店。看板からして「なんつッ亭」創業者の個性が発信されておりラーメンファンを魅了している(筆者撮影)
神奈川県秦野市を貫く幹線道路、国道246号線沿いにある「なんつッ亭」本店。看板からして「なんつッ亭」創業者の個性が発信されておりラーメンファンを魅了している(筆者撮影)

開業当初は鳴かず飛ばずであったが、意図して小学生の放課後のたまり場にしてみたり、にぎやかな店にしていった。そこで同店のキャッチフレーズとなる「うまいぜベイビー」が誕生した。古谷氏が開発した「黒マー油ラーメン」は、見た目のインパクトは強烈でありながらもスープはクリーミー。これによってラーメンファンが詰めかけるようになった。このような「なんつッ亭」の経緯は、古谷一郎氏の著作『うまいぜベイビー伝説』にまとめられている。店舗は最盛期に10店舗近く、海外ではシンガポールでも営業していた。

その後、創業者の古谷氏はラーメン事業家よりも市民活動家の側面が強くなっていった。店舗数も減じていき4店舗となっていた。とは言え、ラーメンファンからの人気は衰えることなく繁盛店揃い。秦野市の本店は30坪で月商900万円を売り上げている。

こうして2022年12月、人材派遣業の「せい家」(売却した店舗の「せい家」ではない)は「なんつッ亭」を運営する会社となった。新しい体制にはかつての「せい家」の精鋭が戻ってきて「5年後20店舗」を見据えている。中途採用者の初任給を32万円から35万円に引き上げて「攻める組織」をつくろうとしている。

新しい店舗として東京・町田の駅近くの大きなにぎわいの中に17坪の物件を確保した。「なんつッ亭」は最早、やんちゃをしていた人物のラーメン店ではなくなる。そこで山内氏は「なんつッ亭」の「うまいぜベイビー」の伝統を生かしながらも「なんつッ亭」の新しいブランディングづくりに余念がない。

これまで「なんつッ亭」は、個性が強烈な古谷氏の属人的な要素で熱烈なファンをつちかってきた。自著『うまいぜベイビー伝説』の表紙は古谷氏のふんどし姿である。「なんつッ亭」がこれから古谷氏のキャラクターから離れて、客層を拡大する上で女性客の取り込みも重要になる。これからは「黒マー油ラーメン」の商品力をどのように多くの人々に愛されるようにしていくかに期待したい。

家系ラーメンは国民食ラーメンに大きく影響をもたらした存在。そして、新しい「なんつッ亭」によって「ラーメン新時代」が始まることになる。

フードサービスジャーナリスト

柴田書店『月刊食堂』、商業界『飲食店経営』とライバル誌それぞれの編集長を歴任。外食記者歴三十数年。フードサービス業の取材・執筆、講演、書籍編集などを行う。

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