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【将棋名勝負プレイバック】1994年12月9日、羽生善治(24)竜王復位を果たし史上初の六冠に

松本博文将棋ライター

 1994年12月8日・9日。山形県天童市・滝の湯ホテルにおいて第7期竜王戦七番勝負第6局▲羽生善治挑戦者(24歳)-△佐藤康光竜王(25歳)戦がおこなわれました。

 8日9時に始まった対局は9日19時7分に終局。結果は121手で羽生挑戦者の勝ちとなりました。

 羽生新竜王はこれで将棋史上初の六冠に。このあと、夢の全七冠への道を歩んでいくことになります。

時代と背景

 1993年、羽生竜王(当時)は王位、王座、棋王、棋聖をあわせ持つ五冠でした。しかし竜王戦七番勝負では佐藤康光七段(当時)の挑戦を受けて2勝4敗で失冠。四冠に後退しました。

 しかし1994年、米長邦雄名人(当時)に挑戦して名人位を獲得し、再び五冠となります。

 羽生名人(五冠)は竜王位挑戦権を得て、佐藤竜王にリベンジマッチを挑むことになりました。

 第1局の対局場はフランスのパリ。佐藤竜王先手で相掛かり腰掛銀となり、118手で羽生挑戦者勝ちとなりました。

 第2局、第3局は相矢倉でいずれも羽生勝ち。第4局は相掛かりで、形勢二転三転の末に佐藤竜王が勝って、カド番をしのぎます。

 第5局は羽生挑戦者の向かい飛車に佐藤竜王は居飛車穴熊に組んで佐藤勝ち。

 羽生3連勝のあと佐藤2連勝で第6局を迎えました。

羽生、堂々の六冠制覇

 第6局がおこなわれたのは天童市の滝の湯ホテル。このとき新設された「竜王の間」のこけら落としとして、本局がおこなわれました。

 戦型は相矢倉で、第3局と同じ4六銀-3七桂型。そこで後手番の佐藤竜王が9筋の端歩を突く新研究を見せました。

 現在は自由奔放な棋風として知られる佐藤現九段も当時は居飛車正統派で、佐藤-羽生の対局からは、多くの最新定跡が生まれました。

 43手目、羽生九段が中央5筋の歩を突き、はじめて駒がぶつかった局面で1日目は指し掛けに。コンピュータ将棋ソフトの研究をもとに、1日目の早い段階で中盤の奥深く、場合によっては終盤にまで進んでしまう現代の目から見ると、ゆっくりした進行に見えます。

 2日目に入って本格的な戦いが始まります。どちらも組み合っての戦いが減った現代においては「これぞ相矢倉」と言いたくなるような、両者相手城の大手門に』向かっての攻め合いとなりました。

 持ち時間8時間のうち、両者ともに残り1時間を切っての終盤戦。現代のコンピュータ将棋ソフトの評価値では、羽生九段が抜け出してリードをしたようです。

 ただし当時の文献には、対局者だけではなく、解説陣や観戦者の目には勝敗不明であり、興奮しながら最終盤を見守っていた様子が描かれています。評価値を見た方がいいのか、見ない方がいいのか。どちらの観戦スタイルが楽しめるのか、勉強になるのかは、いまでも人それぞれでしょう。

 111手目。羽生挑戦者は佐藤陣の飛車を取ります。これが詰めろ逃れの詰めろ。そこで佐藤竜王が投了し、熱戦にピリオドが打たれました。

「負けました」

 深々と佐藤が頭を下げたのが午後7時7分。羽生も礼を返して竜王戦第6局の激闘が終わった。雪崩をうって対局室に飛び込む取材陣。そして洪水のようなシャッターの音。

「ここまできたら七冠王を目指したい」と力強く語る羽生。竜王、名人を含む六冠王。羽生の時代だ。

出典:木屋太二・観戦記(『第七期 竜王決定七番勝負』所収)

 将棋史上初の六冠王となった羽生竜王・名人はこのとき24歳2か月でした。

 2022年12月現在では、藤井聡太現竜王(五冠)が六冠を目指すポジションにあり、当時の羽生六冠の年齢が報道で取り上げられる機会も増えてきています。

 藤井六冠が生まれるかどうかはまだわかりません。しかしいずれにせよ、羽生六冠、そして七冠の偉業は変わらず将棋史に残り続けることでしょう。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)など。

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