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少数民族と呼ぶのはやめた:中国を見つめ直す(6)

麻生晴一郎ノンフィクション作家

ぼくは、中国の少数民族を異民族、周辺民族などと呼び、少数民族という語は基本的に用いていない。そのことを声高に主張してはいないが、中国の諸民族について語る際に、まず自分の考え方を改めようと思って、そのようにしている。同様にウイグル族、ミャオ族、モンゴル族なども、ウイグル人、ミャオ人、南モンゴル人などと呼んでいる。

少数民族という言葉は中国だけで用いられているわけではなく、ベトナム、ミャンマーなど外国でも用いられる。ただし、ある国では先住民、マイノリティーなどの言葉を用いるし、民族構成が複雑などの理由から少数民族という発想をしない国もある。一方、中国では漢民族が人口で圧倒的多数を占めるばかりでなく、政治上・経済上もきわめて大きな影響力を持つことから、他の民族を少数民族と呼ぶことにほとんど違和感が持たれていない。

ぼくは以前、少数民族という言い方が好きだった。と言うのも、とかく単一民族国家と考えられがちな日本において、アイヌ人や在日朝鮮人の民族性に注目する向きが少なかった中、中国で初めて少数民族という存在に触れ、新鮮な気がしたからだ。中国では少数民族が定義され、各民族の言語・文化を尊重する民族区域自治制度がある。もちろん、中国の制度など建前と本音に歴然とした差があるが、たとえ建前にせよ、少数民族の言語・文化を認めようとしたことは日本にも見習うべき部分があると思っている。

ただし、こうした認識は日本と中国を比較するから生じるものであり、中国政府と各民族を比べれば違った認識が出てくるものだ。中国と関わり続け、漢民族以外の知人・友人が増えるにつれ、中国の民族政策の実態を知るようになり、手放しで褒めることなどとてもできないと思うようになった。

民族衣装の女性と解放軍兵士が並ぶ愛国ポスター
民族衣装の女性と解放軍兵士が並ぶ愛国ポスター

少なからずの異民族の知人から少数民族という言い方に対する抵抗感も耳にした。この言葉が自分たちを矮小化し、侮辱していると言うのである。少数民族という言葉を使う漢民族の大半はおそらく彼らを馬鹿になどしていないだろう。だが、漢民族に支配されていると感じる側の反応はまた別だ。彼らは少数民族の多くが迫害を受けた文化大革命などの体験、被支配の歴史、生活上のちょっとしたトラブルを記憶する中で、少数民族という言葉をとらえる。殊に、新疆、内モンゴルなどに住む彼らは、本来自分たちの住むエリアで多数派だったわけで、それが中国全土と一元化してとらえられた挙句、少数派だとみなされることは心外に違いあるまい。

今、日本でも中国の少数民族という言葉は平然と用いられている。言う側としてはそこに政治的な意味を込めてはいないだろう。しかし、もし日本人があえてこの言葉を使わないとしたら、民族自決や国土分裂を支持しているなどと政治的な意図を読み取られる可能性があるわけで、だとすれば、かりに何気なしにこの言葉を用いているとしても、そこに政治的な意図はあってしまうのだ。ぼくは中国の国土分裂を願っているわけではない、ただ、友人も含め、各民族に敬意を表するために少数民族と呼ばない。そして、中国でも少しでも多くの人がこの言葉を使う際に躊躇することを願う。そのことは、中国でも彼らの境遇を真剣に考える人が出てきたことを意味すると思うのだ。

ノンフィクション作家

1966年福岡県生まれ。東京大学国文科在学中に中国・ハルビンで出稼ぎ労働者と交流。以来、中国に通い、草の根の最前線を伝える。2013年に『中国の草の根を探して』で「第1回潮アジア・太平洋ノンフィクション賞」を受賞。また、東アジアの市民交流のためのNPO「AsiaCommons亜洲市民之道」を運営している。主な著書に『北京芸術村:抵抗と自由の日々』(社会評論社)、『旅の指さし会話帳:中国』(情報センター出版局)、『こころ熱く武骨でうざったい中国』(情報センター出版局)、『反日、暴動、バブル:新聞・テレビが報じない中国』(光文社新書)、『中国人は日本人を本当はどう見ているのか?』(宝島社新書)。

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