「あっけない相撲が増えた」の別の見方を考える 現代を戦い抜く力士の魅力とは
”過去の美化”からの脱却が生む新たな視点
「最近の若いモンは」。この文句が、いつの時代も言われているのはよく知られたところだ。若いときにそう言われて育った世代が、歳を重ね、同じように若者たちに唾を飛ばしているということである。
相撲界でもまた同様だ。昨今は、大型化も相まって、ケガと戦いながら頑張っている力士が多いなか、
「日本人力士たちが弱い」
「いまの大関陣は情けない」
などという声をよく耳にする。または、
「昔のお相撲さんは、体も細くて残り腰があって、勝負に真剣に向き合っていた」
「その半面、いまのお相撲さんは、体が大きくなって、土俵際でも粘れず、すぐに諦めてしまう」
と言われることもある。もちろん、そういう見方もあろうが、100%正しいのだろうか。力士たちは必死にこの時代を戦い抜いているのだ。
特に、大関は昔からカド番やらクンロクやらを繰り返していたわけで、そこはいまも変わっていない。相撲内容についても、はるか昔に比べたら現代のほうが発展していると考えられるのではないだろうか。それは、陸上100メートル走の世界記録がどんどん伸びているのと同じで、スポーツ医科学の発展や人間の身体能力自体が進化しているから、必然ともいえる。
実際、映像で、いまの力士の立ち合いの当たりと、昔の当たりの圧力を見比べてみてほしい。昔は、いまのように手付きに厳しくなく、頭ではなく胸で当たることが多かったせいもあり、いまの力士たちほどケガをしそうな当たりではない。
土俵際の粘りについてはどうだろう。いまは、力士一人一人が、この形になったら負けないという、“自分の型”をもっている。横綱・照ノ富士関は、左前みつを取れば、絶対に勝てると自負している。突き押しが得意の大栄翔関は、一発突いて離れれば、相手を土俵外まで持っていけると思っている。髙安関は、左四つになれば誰にでも勝てる自信がある。
“自分の型”をもった上で、その型を完璧にまで仕上げるために、彼らは日々稽古している。つまり、力士が自分の形になった瞬間に、ただ勝つだけではなく、パーフェクトな状態で勝つため、相手に粘り腰があろうが、絶対的に勝ってしまうのだ。それくらい、現代の力士たちは、型に関しての技術が上がっているため、あっけない相撲が増えた、という見方もできる。
この観点でいうと、昔(1950年代の栃若時代くらい)の場合は、自分の得意の型になっても、逆に土俵際で攻め切れないがゆえに、相手に粘られてしまっている、と捉えることもできるのだ。
力士が筋力トレーニングを取り入れたり、プロテインを飲んだりする、いわゆる”アスリート化”を是としないファンがいることもよくわかっている。そういう人たちほど、国技や日本伝統文化としての相撲を愛しているのだろうから、その意見を真っ向から否定するつもりはない。
いまの力士も、そういった伝統文化の側面を大切にしている。その上で、彼らは日々高みを目指すために、最新のスポーツ医科学の知見に基づいて、よいとされるものは積極的に取り入れているのだ。皆さんによりよいパフォーマンスを見てもらいたいと思う、まさにトップアスリートとしての心も持ち合わせていることを、理解してもらえたらうれしいなと思う。
多面的な視点で見えてくる現代の相撲の面白さ
この世に存在する物事は、ほとんどが多面的だ。側面から見ると三角形でも、上から見ると四角形になる四角錐のように、多くの物事は多面体の形をしていると思っておいたほうがいい。ひとつの側面からしかものを見られないことは、その人の視野を狭めるだけでなく、あらゆる可能性を見逃し、物事の本質にたどり着けない危険をはらんでいるのだ。
無論、いまの力士のほうが強いんだと、ただ主張したいのではないし、昔の相撲を否定する気もまったくない。むしろ、強い・弱いというひとつの側面ではなく、見応えがあるかないかの側面でいえば、力が拮抗して土俵際の粘りもあった昔のほうが、見ていて面白かっただろう。ただ、こうした相撲の別の見方を提示することで、現代の相撲の面白さや、力士たちのすごさを、より多くの人に知ってもらえたらいいなと思い、筆を執った。相撲の魅力を発信する者としては、こうしたことを、時々の感情論ではなく、しっかりと分析して、後世にも伝えていかねばならないだろう。
もうすぐ大相撲春場所が始まる。どの力士も、この瞬間を必死で戦い抜いているんだ、目の前の一番にすべてを懸けて頑張っているんだ――来る場所も、そんな思いで力士たちを応援していただけたら幸いである。