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江戸城を築いた太田道灌は、なぜ暗殺されたのか? 3つの説から考えてみる

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
太田道灌の銅像。(写真:イメージマート)

 現在でも要人が暗殺されることがあるが、たいていの場合は理由がはっきりしている。太田道灌は暗殺されたが、その理由は3つが考えられるので、検討することにしよう。

 文明18年(1486)7月26日、太田道灌は主君の上杉定正に招かれ、相模糟屋の屋敷に赴いたところ、風呂場で殺害された(『太田資武状』)。殺され方も諸説あるが、問題はなぜ太田道灌が上杉定正に暗殺されたかである。以下、3つの説から考えてみよう。

①江戸城の補修工事

 『永享記』によると、道灌が江戸城の補修を行ったことが暗殺された理由であるという。江戸城は武蔵支配の拠点として、古河公方の足利成氏の命により、道灌が築城した。江戸城はあまりに堅固であり、かつ補修工事が念入りに行われたので、上杉顕定が道灌の謀反を疑ったという。

 上杉家中では、三戸、上田、荻谷らの重臣が道灌の名声を妬み、顕定に讒訴したといわれている。すると、顕定は定正に対して、道灌に謀反の意があると訴えた。その結果、道灌には謀反の意がなかったものの、無実の罪で暗殺されたのである。

②伊勢宗瑞(北条早雲)の謀略

 『岩槻巷談』によると、かねて宗瑞は関東侵攻を企てていたが、道灌という名将がいるので、容易でないと考えたという。

 そこで、宗瑞は武蔵国に多数の間諜を送り込み、道灌が今川氏と内通していること、北条氏と協力して両上杉氏を滅亡させようとしていること、自らが関東管領になろうとしているというデマを広めた。

 その結果、道灌は暗殺されたというが、『岩槻巷談』は俗書なので信用できないという。

③長尾景春との関係

 『鎌倉九代記』によると、顕定は家宰の長尾景春が謀反を起こした際、道灌がこれを扇動したと考えたという。顕定が道灌を疑ったので、道灌は江戸城を補修して、これに備えた。そこで、定正は2人の争いを止めさせようとしたが、聞き入れられなかったので、仕方なく道灌を暗殺したといわれている。

 家臣の台頭が主君の存在を脅かすことは、そんなに珍しくなく、ときに主君が先手を打って有力な家臣を討つこともあった。道灌の暗殺も一般論でいえば、そうした流れに起因するものではないだろうか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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