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能登半島地震で政府は自衛隊をなぜ逐次投入 阪神・淡路大震災で「出遅れた」批判集中の教訓は?

石川慶子危機管理/広報コンサルタント
今年1月7日、千葉県船橋市で「降下訓練始め」(第1空挺団YouTubeより)

 元日に発生した能登半島での地震における救助活動について、自衛隊が「逐次投入」されたことへの批判が広がってきています。危機発生時は初動が重要であり、災害や遭難など人命にかかわる場合には、最初の72時間で救助しないと生存率が急落することは既によく知られています。当然、発災直後に多くの自衛隊が派遣され、救助活動をしていると信じていましたので、「逐次投入」だったとする報道には驚かざるを得ません。1995年に発生した阪神・淡路大震災(以下、阪神大震災)では自衛隊の派遣が遅かったのではないか、と批判され、それを教訓として、2011年の東日本大震災や2016年の熊本地震では迅速だったはずではないか、と多くの方が思ったのではないでしょうか。そこで今回は、阪神大震災を取材し、1月1日の夜にいち早くX(旧ツイッター)で「現地の部隊に任せるのではなく、速やかに第1空挺団や中央即応連隊をヘリコプターで珠洲市や輪島市に投入すべき」と具体的に指摘したジャーナリストの奥山俊宏さん(元朝日新聞記者)に今回の問題点と阪神大震災の教訓について解説していただきました。

■動画解説(日本リスクマネジャー&コンサルタント協会)

阪神大震災での逐次投入が頭をよぎった

1月1日能登半島地震の夜、奥山さんは自衛隊の部隊名まで具体的に記載して政府がやるべきことをXに投稿されました。何らかの危惧があったのでしょうか。

―能登半島地震の震源のすぐそばの、能登半島の先端にほど近い珠洲市の高屋町というところで、かつて関西電力が原子力発電所の建設を計画していました。その取材のために1999年秋、羽田空港から小松空港に入って、レンタカーを借りて金沢市内に何泊かし、金沢から高屋町のあたりに行ってうろうろしたことがあります。それとは別に、2012年、羽田から能登空港に飛んで、輪島市や七尾市を車でうろうろしたこともあります。そういう経験から、珠洲市、輪島市のあのあたりは陸路で行くと本当にものすごく遠いけど、航空機を使えば、羽田からひとっ飛びで入れる、という感覚がありました。

 元日の夜、全日空のウェブサイトを見て、どうやら民航機は能登空港を使えなくなっていると察しはついたのですが、滑走路が必要な固定翼の飛行機は無理でも、ヘリコプターならば能登空港を拠点に使えるだろう、と思いました。陸上自衛隊の中部方面隊だけでなく、距離的に比較的近い首都圏から大型ヘリで部隊を能登空港に入れるべきだ、と思いました。特に、陸上総隊の直轄部隊、具体的に言うと、第1空挺団や中央即応連隊を大型ヘリですぐに派遣するべきだ、と思いました。能登空港から先、高屋町あたりは中型ヘリを使って行くことになるだろう、と思いました。

 あとで知ったことですが、1月2日午前1時49分の日経の速報で、能登空港の設置管理者の石川県が陸上自衛隊に能登空港への着陸を許可した、と報じられています。その日経報道によれば、陸自は県に夜間照明を自前で用意すると伝えたそうです。実際、国土交通省の発表によれば、2日から救援のためのヘリが能登空港を使ったそうです。その先についても、テレビ報道やユーチューブの映像を見ると、珠洲市内の公園や輪島市内の学校グラウンドに中型ヘリだけではなく大型ヘリが降りることができたようです。

空挺団は発災直後の人命救出ができる部隊

重機を持っていなさそうな空挺団に何ができるのですか。

―重機で道路を直すのではなく、倒壊した木造家屋の下敷きになっている人を救出する仕事です。阪神大震災の被災地で発災当初の3日間に切実に求められたのが、まさにこの仕事です。

 自衛隊の災害派遣について2001年に検証取材した際に、第1空挺団が、倒壊家屋の下敷きになっている人たちの救出のための資機材の装備を充実させていることを知りました。当時入手した第1空挺団の資料によれば、チェンソー、エンジンカッター、レバーブロック、オイルジャッキなどの機材を50セットずつそろえていました。

 着陸させなくても、ヘリからロープで降りられるリペリングの資材ももちろん持っていますし、何よりも大切なのは、とても厳しいことで知られるレンジャーの訓練に耐え抜いた経験のある隊員がたくさんいることです。選んだ隊員を最初の3日間だけ入れて3日経ったら引き揚げさせるとか、そういうメリハリのきいた派遣をすればいい、と思いました。

 第1空挺団のツイッター(現X)のアカウントを見ると、「陸上自衛隊の精強部隊として、侵略・大規模震災などの国家の危機に際しもっとも困難かつ重要な場面に、迅速に空中機動し(中略)身を挺してあらゆる任務を果たすことが求められている部隊です」とあるのが目に入りましたので、なおさら、そう思いました。

阪神大震災で第1空挺団の派遣はされなかったのでしょうか。自衛隊が全国の部隊を一度に投入できなかった原因は何ですか。

ー阪神大震災でも第1空挺団は被災地に入っています。ただし、人命救助のためではなく、震災発生から何日もたった後に給水だとか衛生だとかを支援するため、車両で入っています。もっとも厳しい訓練に耐え抜いて、かつ、ヘリでの移動に慣れていて、同じ千葉県内のヘリコプター団と協働する機会がもっとも多いはずの隊員たちが、震災発生当初の人命救助ではなく、後詰めに回されたのは本当にもったいない、と感じました。

 阪神大震災の際の自衛隊の行動を検証してよく分かったのは、自衛隊の「隊区主義」の強さと弱さです。全国各地に点在する各部隊は、自分たちの持ち場で起きた災害に対しては自分たちが責任をもって災害派遣をやり遂げるという覚悟と責任感をもっていて、そのことそのものは尊敬すべきことですし、ほとんどの災害はそれで対応できるでしょうが、マグニチュード7級の直下型地震が地表近くで起きたときに引き起こされるような規模の大きい災害では、時間との競争になります。

 兵庫県は第1空挺団の隊区ではないけれども、1995年1月17日から19日まで3日間、被災地で人手は多ければ多いほどよかった。今回の能登半島地震は阪神大震災の3倍近くの規模ですから、阪神に比べると、人口密度は低いものの被災地がとても広くなるだろう、ということは最初から分かっているわけです。

 生存者を救出できる目安である72時間のうちに、あるいは、できることなら生存率の高い48時間のうちに、生きて下敷きになっている全ての人を救い出さなければならない、あの広い地域だけど、がれきの下で息のある人は一人残らず何としても救い出したい、と考えるべきです。ですから、その2日か3日の間は、「隊区」にこだわらず、拙速になってもいいから、活動地域が重なってもいいから、先を争うように部隊を入れるべきです。それが阪神大震災の教訓です。「大震災の場合においては『隊区主義』に拘泥することなく」というのが、阪神大震災の際に近畿一円を隊区とする自衛隊の第3師団が得た教訓です。

今回の能登地震でも「隊区主義」の弊害が出る可能性があると思ったのですか。

―東日本大震災は、あまりに災害の規模が大きいことが最初から明らかだったからなのか、結果的に「隊区主義」の弊害はなかったようなので、今回も大丈夫だろうと思いましたが、他方、心配する気持ちもありました。深夜になって、木原稔防衛大臣が「今回は中部方面隊が中心になります」と言っているのを知って、心配が的中したというか、こりゃダメだ、と思いました。上級部隊の陸上総隊が中心となるべきです。

 今回の被災地を「隊区」として所管しているのは、中部方面隊です。阪神大震災のときも中部方面隊が災害派遣を行ったのですが、司令部は兵庫県伊丹市にあります。その司令部が中部方面隊の全力を投入すると決心したとして、中部方面隊の主力部隊があるのは、愛知県や兵庫県、広島県です。そこから陸路で部隊を送ることになる。

 後詰めとしてはそれもいいんですけど、今回の被災地は、広島県や兵庫県よりも、東部方面隊の「隊区」の新潟県や長野県により近い。だから中部方面隊に加えて、最初の3日間だけでも、東部方面隊の比較的近い部隊を入れるべきだし、何よりも、中部方面隊や東部方面隊の上級部隊として2018年に防衛大臣の直接の指揮下に創立された陸上総隊がその直轄部隊を出せばよかった。千葉県木更津市に第1ヘリコプター団があって、これも陸上総隊の直轄部隊で、ヘリが数多く配置されています。同じ千葉県内の空挺団を乗せて能登空港に行けばよかったのに、と感じます。

 これは阪神大震災の教訓なんです。そう思ってツイートしました。「隊区」にこだわると、こういう発想にならない、というのは、阪神大震災の検証取材でよく知っていました。総理大臣や防衛大臣が具体的にどの部隊を入れろと指示するのは無理だと言う人がいますが、陸上総隊に命令を出せるのは防衛大臣だけです。そういう立場にいる人が命令を出さなければ、自然と、「今回は中部方面隊が中心になります」ということになります。陸上総隊や東部方面隊は給水支援だとかそのお手伝いをする、という枠組みになってしまいます。これはほぼ自動的にそうなってしまいます。

 「被災者の救命救助に全力で取り組め」と抽象的に指示するだけでは、そのプロトコルは変わりません。中部方面隊はその全力で救命救助に取り組むでしょうが、そのほかの部隊は一部を除いて災害派遣ではなく予定どおりの訓練を続けます。防衛大臣もしくは総理大臣がひとこと「人命救助の活動については、中部方面隊だけに任せず、東部方面隊や陸上総隊からも部隊を2日午前に入れろ」と指示すればよかったのです。

今回も逐次投入したとする報道をみると、阪神大震災のときと同じ過ちを繰り返してしまったということですか。

―能登半島地震が発生してから72時間の間に、自衛隊はどういう態勢で対応したかを防衛省の発表で見ると、地震発生の翌日の1月2日に1000人、航空機22機、3日に2000人、航空機33機、4日に4600人、航空機33機です。まさに逐次投入です。航空機のうち相当数は固定翼の飛行機でしょうから、実際に輸送にあたっているヘリはこの数字より少ないはずです。

 木原稔防衛大臣が1月5日の記者会見で、「道路の復旧状況なども併せてみながら、かつ現地で受入れる態勢が整った段階の中で、人数を増やしていった」と説明しました。この言葉を見たときに、後先が全く逆じゃないか、発想からして間違ってる、と感じました。道路の復旧や受け入れ態勢の整備よりも、人命救助を先にするべきですから。

生き埋めになった人は一刻も早い救助を待っている

阪神大震災の取材にはどのように携わったのでしょうか。自衛隊の災害派遣を取材することになったのはなぜですか。

―阪神大震災が発生した1995年1月17日当時、当時は朝日新聞の社会部員で一番若かったので、何かあればすぐに現場に派遣される立場でした。前の年の北海道東方沖地震のときも夜中に会社のヘリで羽田を出発し、空路で道東に派遣されました。

 兵庫県南部地震が起きた1月17日の午後、東京から伊丹空港経由で兵庫県西宮市に入りました。タクシーに乗ったのですが、大渋滞でなかなか動けず、途中から歩きました。その日から1週間ほど、主に芦屋市や神戸市東灘区をうろうろしました。

 翌18日のことですが、芦屋市津知町でアパートの1階がつぶれている現場を見ました。2階の床をこじ開けて、下にいるかもしれない人を助け出そうとしている若い男性がいました。1階に住んでいる親子が出てこない、というので、2階に住んでいたその男性が2階の床を「掘って」いました。消防の人もいないし、自衛隊の人もいない。マスコミの人は私だけ。そのときその現場には私とその男性の2人しかいませんでした。

 そのすぐ近くの東灘区深江北町では鉄筋コンクリート造らしき5階建てマンションの1階が押しつぶされて、1階は20~80センチほどの隙間が残っただけになっていました。現場にいた行方不明者の家族だという人の話によれば、前日、17日夕までは、その隙間の奥のほうから「助けて」と叫ぶ女性の声が聞こえたそうです。18日時点で、ここでは自衛隊の人たちが救助にあたっていました。

 見たままの状況を原稿にして、電話で本社に送稿しました。でも、そうした原稿が新聞紙面に載ることはほとんどありませんでした。そんな現場がおそらく何百もあったのでしょう。だから紙幅をいくら広げても、生き埋め現場の一つひとつをくまなく報道することは不可能です。私の記憶では、阪神大震災の現場で他の記者やテレビクルーと会ったことは一度しかありません。それくらい、現場がたくさんあったのです。

 1週間ほどで私は東京に戻ることになり、東京に着いた瞬間から、別の事件の取材に追われることになりました。阪神大震災の被災地で、いろいろな人に話を聞かせていただき、そういう状況をこの目で見たのに、それを十分には社会に還元できていない、という負い目を、東京に戻って強く感じました。見てしまった者、知ってしまった者としての責任を果たさなければならない、という思いがずっと残っていました。

 その5年近く後、1999年11月に、大阪社会部に転勤することになりました。大阪の社会部長からやりたいことを尋ねられましたので、震災取材班を希望しました。朝日新聞の大阪本社にとって、1.17(阪神大震災)は、5.3(朝日新聞阪神支局事件)、8.6(広島原爆)と並ぶ重要テーマで、取材班が常設されていました。震災発生から5年過ぎても6年過ぎても、四六時中、検証紙面を特設したり、企画記事を連載したりしていました。2002年1月まで2年強、私はその一員でした。その際の検証の対象の1つに自衛隊がありました。2001年にかなり力を入れて取材しました。

自衛隊は阪神大震災の行動をどのように検証したのでしょうか。発災直後3日間の行動をどうすべきだったと総括したのでしょうか。

―2001年4月に、国の行政機関の情報公開に関する法律が施行されました。防衛省の行政文書ファイル管理簿を「震災」とか「災害派遣」とかのキーワードで検索して文書を特定し、さっそくその法律を使って、震災に関する資料の開示を防衛庁に請求しました。

 第1空挺団の災害派遣用資機材のリストはそのときに入手したものです。特に有用だったのは、「阪神・淡路大震災災害派遣行動史」というタイトルで、各級の司令部が、阪神大震災の際の自分たちの行動を総括するためにまとめた報告書です。受けた命令や出した命令の内容がそのまま付録に添付されていました。いつどのような命令が出されたのか、克明に分かります。

 陸上自衛隊の態勢に関するまとめがあって、資料によって数字に食い違いがあるのですが、1月17日は深夜の時点で3千人規模、18日と19日は9千人規模の投入で、20日以降になって1万数千人規模と増えていました。

 失敗だったのは、被災地の外にある中国地方の第13師団、東海・北陸地方の第10師団がほぼ3日間、被災地に入るのを許されなかったことです。それら2個師団の主力が実際に被災地に入ったのは20日早朝でした。これは遅すぎました。

 首都圏にある部隊の主力も動きませんでした。第1ヘリコプター団から輸送能力の高い8機の大型ヘリが大阪に増援されましたが、そのヘリが首都圏から空挺団の隊員を輸送することはありませんでした。

現場にいた自衛隊のリーダー達はどのように思っていたのでしょうか。

―そうした資料を読み込んだ上で、当時の師団長や幕僚たちに話を聞いていきました。事実関係は資料にあるので、そのときの思考や感想を聞くのを中心にしました。

 第10師団の人たちは、1月17日の朝に報道に触れて以降、一刻も早く被災地で活動したくて仕方なかった。中部方面隊の司令部に「行かせてくれ」と催促したそうです。それなのに、20日未明まで足止めされた。「隊区主義」の弊害が原因です。

 今回の能登半島地震とは異なり、当時は自衛隊の派遣が遅れたのではないかとの自衛隊批判が噴出しました。今回も若干の批判がありますが、それとは比べものにならないくらい、広範に批判が出てきました。

 そうした批判について、陸上自衛隊は、陸上幕僚監部の行動史のなかで、「48時間を過ぎると救命率が急落することや(中略)死と隣り合わせの状況にいた住民の思いや被災者の心情が批判の背景になっていることを理解する必要があろう」と振り返り、「国民のニーズは迅速な初動にある」と総括しています。

 そして、「3日以内に大きな隊力を投入して救出活動を開始するとともに、当初3日間は夜間を徹してでも捜索活動を行うことが必要である」とか、「担任部隊の対処能力を超える場合は、上級部隊指揮官が自ら指揮をとって全般統制を実施することが必要である」とかの教訓を抽出しています。

総理大臣の責務として災害時の自衛隊派遣を明文化した法規定にすべき

阪神大震災の教訓が生かされていない。同じ失敗を繰り返さないためにはどうすればよいのでしょう。

―自衛隊法に災害派遣の規定(自衛隊法第83条)がありまして、この第2項として、自衛隊は、知事の要請があり、かつ、「事態やむを得ないと認める場合」には、部隊を救援のため派遣することができる、と定められています。「派遣するものとする」とか「派遣しなければならない」ではなく、「派遣することができる」。不思議な言いぶりです。

 多くの国民が大地震発生の際には自衛隊の災害派遣に期待しています。その災害派遣をやってもやらなくてもいいような規定にしていていいのでしょうか。災害対策基本法では、国は、「組織及び機能の全て」を挙げて防災に関し「万全の措置」を講ずる責務を有する、と定められています。それと矛盾しているように見えます。

 国民の生命、自由、財産を守るのは国家の基本的な責務です。これは外国の軍隊から守ることだけではなくて災害から守ることを含みます。そのために自衛隊は国家の手足となって行動する。知事の要請を受けてではなく、内閣総理大臣、防衛大臣の責務として、災害時に自衛隊を動かすことを明文化した法規定にすべきだと思います。2001年当時から私はそう思っていますが、阪神大震災発生から30年目にあたる節目となる今年、能登半島地震の対応を検証するとともにこの規定を改正するべきだと思います。

 そうじゃないと将来、大地震発生時に政府の上に立つ人しだいで、自治体任せ、現地部隊任せになってしまい、初動の態勢が過小となりかねません。災害対応は自治体がやるべきもの、現地の部隊がやるべきものだと骨の髄まで染み込んで思っている人が多いのです。ふだんの災害はそれでいいかもしれないけれども、大災害の場合はそうであってはいけない。頭の切り替えをするためにも今年こそ自衛隊法83条を改正したほうがいい、と思います。

【奥山俊宏氏の本件詳細記事】

・阪神大震災の自衛隊の教訓「情報判明を待つことなく『拙速』対処を」

https://note.com/okuyamatoshi/n/n6a2ee0f3cf3f

・全国各地の自衛隊部隊を被災地にいかに迅速投入するか

https://note.com/okuyamatoshi/n/nc1b185843063

・阪神大震災、発生から30年目となる今年にある1記者が言ったこと(Atta!)

https://www.atta-sophia-journalism.com/post/19950117-20240117

■動画解説

00:03 阪神・淡路大震災での取材

00:32 阪神・淡路大震災における自衛隊災害派遣

00:57 能登半島地震と自衛隊

01:20 自衛隊法第83条

【奥山俊宏(おくやま・としひろ)氏略歴】

岡山県生まれ。1989年、東京大学工学部原子力工学科卒、同大学新聞研究所修了、朝日新聞入社。水戸支局、福島支局、東京社会部、大阪社会部、特別報道部などで記者。2013年、朝日新聞編集委員。2022年、上智大学教授(文学部新聞学科)。

著書『秘密解除 ロッキード事件 田中角栄はなぜアメリカに嫌われたのか』(岩波書店、2016年7月)で第21回司馬遼太郎賞(2017年度)を受賞。同書に加え、福島第一原発事故やパナマ文書の報道も含め、日本記者クラブ賞(2018年度)を受賞。「後世に引き継ぐべき著名・重要な訴訟記録が多数廃棄されていた実態とその是正の必要性を明らかにした一連の報道」でPEPジャーナリズム大賞2021特別賞を受賞。

<参考サイト>

能登半島地震への対応に関する防衛省・自衛隊のウェブサイト

https://www.mod.go.jp/j/approach/defense/saigai/index.html

防衛大臣の臨時記者会見(1月1日夜)

https://www.mod.go.jp/j/press/kisha/2024/0101a_r.html

防衛大臣の臨時記者会見(1月5日)

https://www.mod.go.jp/j/press/kisha/2024/0105a_r.html

第1空挺団のXアカウント

https://twitter.com/jgsdf_1stAbnB

石川県を震源とする地震についての官邸発表(1月1日午後)

https://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/202401/01_p.html

*注記

この記事のタイトルは公開当初「能登半島地震で自衛隊はなぜ逐次投入 阪神・淡路大震災の教訓が生かされない原因はどこに」でしたが、1月25日午後8時半に「能登半島地震で政府は自衛隊をなぜ逐次投入 阪神・淡路大震災で「出遅れた」批判集中の教訓は?」へと変更しました。

危機管理/広報コンサルタント

東京都生まれ。東京女子大学卒。国会職員として勤務後、劇場映画やテレビ番組の制作を経て広報PR会社へ。二人目の出産を機に2001年独立し、危機管理に強い広報プロフェッショナルとして活動開始。リーダー対象にリスクマネジメントの観点から戦略的かつ実践的なメディアトレーニングプログラムを提供。リスクマネジメントをテーマにした研究にも取り組み定期的に学会発表も行っている。2015年、外見リスクマネジメントを提唱。有限会社シン取締役社長。日本リスクマネジャー&コンサルタント協会副理事長。社会構想大学院大学教授

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