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タイタニック号の711名を救った無線通信機が普及 97年前に中央気象台から船舶へ気象放送開始

饒村曜気象予報士
タイタニック号の無線通信室の位置

無線通信機を積んだ船舶

 明治42年(1909年)6月の気象協議会(今でいう地方気象台長会議)では、無線通信機を持っている船舶は海上気象電報を中央気象台(現在の気象庁)宛に発信することを義務付け、また、中央気象台は暴風の恐れがあるときに、海岸局を通して各船舶に警報を出すことが提案されています。

 上海のジカウェ気象台が、同年5月から海上より無線で気象報告を受けていたことに刺激されての提案です。

 そして、気象協議会の提案は、翌43年(1910年)4月に海上気象電報取扱い規定の制定として結実しています。

 これは、公的な制度としては世界初のものです。

 とはいえ、当時高価だった無線通信機を積んだ船舶はほとんどいないということから、事実上は役立つものではありませんでした。

 しかし、高価でも無線通信機を積む船が増えるきっかけとなる、海難が発生します。

 タイタニック号の海難です。

タイタニック号の海難

 明治45年(1912年)4月10日、ホワイト・スター・ライン社(イギリス)の豪華客船「タイタニック号」がイギリスのサウサンプトンからアメリカのニューヨークに向けて初の航海に出港しました(図1)。

図1 タイタニック号の航跡
図1 タイタニック号の航跡

 全長268メートルの「タイタニック号」は、当時の最先端技術で作られ、画期的な二重構造の船体と、16の防水区画によって不沈船と考えられていました。

 さらに、ラウンジやプールなどの豪華設備に加えて、無線通信機などの最新の施設が備えられていました。

 そして、最上階にある無線通信室では、ググリエルモ・マルコーニが作ったマルコーニ社の社員が2人勤務していました(タイトル画像参照)。

 4月頃の北大西洋航路では氷山の流出は珍しくありませんが、この年は例年より寒くて氷山が発達していたといわれています。

 運命の4月14日23時40分、「タイタニック号」の見張り番は、450メートル先に巨大な氷山を発見、舵を左いっぱいにきって氷山を避けようとします。

 しかし、発見の37秒後に氷山は「タイタニック号」の右舷をこすってしまいます。このため、船体のあちこちに亀裂が入り、5つの防水区画に浸水しています。

 「タイタニック号」の浸水を受け、エドワード・スミス船長は救命ボートのカバーをはずさせるなどの指示を次々に出しています。

 そして、無線通信室にゆき、二人の無線通信士に使われ出したばかりのSOSという新しい遭難信号を発信させています。

 記録に残るものとしては、SOSを最初に発信した遭難船は「タイタニック号」です。

 「タイタニック号」から約2時間にわたって打たれたSOSなどの無線通信は、無駄になっていませんでした。

 無線通信機を積んでいない船が多く、積んでいても使われずに近くを通過した船があったとはいえ、100キロメートル先からマウント・テンプル号、カルパチア号、150キロメートル先からパーマ号、300キロメートル先からフランクフルト号などが駆けつけ、救助にあたっています。

 タイタニック号は、乗船者の68%にあたる1490名が死亡するという非常に大きな海難です。

 悲劇の海難と言われますが、陸から800キロメートル以上離れた氷の浮かぶ冷たい海での海難です。

 救助が少しでも遅れれば、乗船者全員が死亡です。

 それが、無線通信機によって多くの船が素早く集まり、711名を助けたのです。

 このことにより、普及に時間がかかっていた無線通信機を多くの船に積むようになり、SOSも広く一般に認知されるようになりました。

船舶への気象放送

 第一次世界大戦後の日本は、貿易や海運が飛躍的に発展しました。

 そこで、関西地方の海運会社から資金を集め、神戸に海洋気象台が建設されることになりますが、その計画中、無線電信の設備があれば海洋気象台の機能が十分活用できるとして、更に阪神地方の有志から寄付を集めています。

 そして、大正11年(1922年)8月には新設となった神戸海洋気象台(現在の神戸地方気象台)に55メートルの鉄塔が建てられ、同年12月から船舶に対して無線放送を始めています。

 これは、世界で最初の船舶や測候所向けの無線放送で、全国主要地点20か所の状況と警報を英文で1日3回放送を行っていました。

 中央気象台が本格的に船舶に対して気象放送を開始したのは、大正14年(1925年)2月10日、今から97年前のことです(図2)。

図2 船舶への気象放送の開始を伝える東京朝日新聞(大正14年(1925年)2月10日)
図2 船舶への気象放送の開始を伝える東京朝日新聞(大正14年(1925年)2月10日)

愈々無電を始める

中央気象台 ‥ あすから1日3回宛

中央気象台の無線電信放送はその後準備に追われて延々になっていたの愈々10日午前9時10分からその初放送を開始することになったがその放送の時間は午前9時10分、午後3時、午後8時10分の1日3回で神戸海洋気象台と相俟って海洋上の船に気象の予報概況等を示し更に全国の測候所へも無線を利用して放送通信を行うので気象予報上新記録を作ることとて気象台では大よろこびであった。

引用:東京日日新聞(現在の毎日新聞)(大正14年(1925年)2月10日)

 最初の船舶向けの気象放送は、北日本を低気圧が発達しながら通過し、西高東低の冬型の気圧配置にかわる頃という天気の日でした(図3)。

図3 地上天気図(大正14年(1925年)2月10日)
図3 地上天気図(大正14年(1925年)2月10日)

 東京放送局(現在のNHK)が、芝浦高等工芸学校からラジオの仮放送を開始する18日前のことです。

 なお、東京放送局が、港区にある天然の山・愛宕山からラジオの本放送を開始するのは、同年7月1日です。

記念切手に描かれた鉄塔

 中央気象台のシンボルとなっていたのは、長いこと屋上に設置された風速計と無線鉄塔でした。

 このため、昭和24年(1949年)6月1日に発行された「中央気象台75年記念8円切手(発行枚数300万枚)」のデザインには、風速計と無線鉄塔がはいっています(図4)。

図4 中央気象台創立75年の記念切手に描かれた無線鉄塔
図4 中央気象台創立75年の記念切手に描かれた無線鉄塔

 この切手が発売された日は、逓信省が二省分離(郵電分離)され、郵政省とともに電気通信省が設置された日で、「郵政・電気通信両省設置記念8円切手」も発行されています。

 こちらのデザインは、大きな無線鉄塔と手紙をくわえたハトでした。

 イタリアのググリエルモ・マルコーニが無線通信機を発明したのは、明治29年(1896年)のことです。

 この無線通信機という新しい技術をいち早く取り入れ、活用していったのが日本ということができるでしょう。

タイトル画像、図1の出典:饒村曜(平成11年(1999年))、タイタニックから始まったSOS、気象、日本気象協会。

図2の出典:東京朝日新聞(大正14年(1925年)2月10日)、東京朝日新聞社。

図3の出典:原典は気象庁「天気図」、加工は国立情報学研究所「デジタル台風」。

図4の出典:筆者コレクション。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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