ふくしまの声を聞く、ふくしまの町を見る:福島第一原発視察を終えて
今月3月6日、白い防護服と全面マスクで、福島第一原発構内を視察した(私が見た福島第一原発:使用済み核燃料棒は青いプールで静かに眠っていた)。いろいろな思いがわく。原発視察は、社会科見学ではない。今の福島県を知るために、原発事故問題の中心点を見たのだ。福島県の、福島原発の中と外について、考えたい。
■福島に行くのを止めた人々
東日本大震災後、大勢の学生が被災地をボランティアで訪れた。各校から団体で、大型バスを使って訪問した学生達もたくさんいた。しかし、実は福島県へ行く学生達は少なかった。首都圏から、福島県を越えて、宮城や岩手に行く学校も多かった。
ある福島県出身の学生が食ってかかったという。「なぜ、福島県には来てくれないのか。」
震災から数ヶ月がたっていたが、ある学校関係者はそっと語ってくれた「正直、福島県には学生を送りずらい」。
震災から半年後に、私が福島県いわき市を訪問することをツイートしたところ、本気で止める人がいた。いわき市民が普通に暮らしている場所なのに、ほんの数日の訪問なのに。
議論をふっかけてくる人もいた。
「じゃあ、お前は、福島県に転勤になったら行くんだな!」。
この人は、私が本当は福島県の放射線を怖がっていて、偽善的な言動を取っていると思ったらしい。「もし転勤になったら、もちろん行きますよ」。そう答えると、彼には予想外の言葉だったようだ。
本当に福島県全体がその時危険だと思っていたのなら、福島県民全員に言うべきだったろう。「今すぐ、みんな避難してください。私達の町で、生活するところを全部準備します」と。
そのとき福島県でお会いした方が語っていた。
「来てくださいとは言いにくい。でも、来てくれたらうれしい」。
今回の福島原発視察を心配してくださった方もいる。大変ありがたい。放射線を心配してくださるのは当然だ。しかし、たった1日の訪問である。たいした放射線量ではない。私がレントゲン検査やCTスキャンを受けるときの医療被曝を心配する人は、ほとんどいないだろう。科学的には同じでも、原発事故による放射線は、心配や不安を生む。
放射線を正しく怖がりたい。そして私は思う。原発反対を強く訴えてもいい人は、福島県民への愛を表現できる人だけだと。
■自主避難者の迷い
福島県から県外避難している人は今も5万人近くいる。新潟県への避難が一番多く4千人である。3年前、新潟に避難してきた子どもたちは言っていた。「僕が福島県を復興させる!」。でも、今その声は小さくなっている。簡単には戻れない現実が見えてきてしまったのだ。
地震や津波で自宅を失った人。原発の避難指示地区の人。避難せざるを得ない人の苦しみは大きいに決まっている。そして、自主避難者の悩みも大きい。
友人や親戚は、残っている。自分は避難する。平気なわけがない。無責任な人の中には、避難しない人を責める人もいる。自主避難することを責める人もいる。
慣れない自主避難先での生活が始まる。そして迷う、福島県に戻るのか戻らないのか。戻らないのも辛い、戻るのも辛い。経済的理由で戻る人もいる。同じ自主避難仲間を残して福島県に戻ることに辛さを感じる人もいる。
福島県内にいる人も、福島の野菜を子どもに食べさせる人、食べさせない人、外で遊ばせる人、遊ばせない人がいる。それぞれの思いがあり、それぞれの辛さがある。
■いわき市のホテルはいっぱいだったが。
県内避難の人も多い。いわき市にも数万人の避難者がいて仮設住宅に暮らしている。いわき市から毎日数千人の作業員が、Jビレッジを通って福島第一原発へ通っている。駅周辺のホテルは復興関係者で満室だ。いわき市は景気が良いという人もいる。
私は、今回何人かの人に聞いてみた。「いわき市は、景気はいいですよね」。
普通、そういう話題には乗ってくるものだ。しかし、どの人の顔も暗い。話には乗ってこない。
「お金なんかいらない、もとのふくしまに戻してくれ」という人。
「商売繁盛とか、東電からのお金で、格差ができている。ふくしまが分断されている」と嘆く人もいた。
■「避難者出て行け!」
地元市民と県内避難者との摩擦もある。
「避難者出て行け!」の落書きも見られたという。ただの近隣トラブルではない、深い問題がある。
お金を持った避難者が、いわき市内の不動産を買う。すると良い物件が減る。「いわき市の新婚夫婦に住む場所がない」と語っている人もいた。
福島第一原発の作業員の皆さんは、すばらしい仕事をしてくださっている。その方々への感謝の言葉を聞いた。いわき市への景気に貢献もしているだろう。しかし、ある人は言っていた「作業員で犯罪を犯す人がいる」。
この発言が事実なのかどうかは、未確認である。私はそんなことはないと信じたい。ただ、何千人もの人がいれば、良い人もいれば悪い人もいるのは当然だ。やさしく親切な人もいれば、乱暴でがさつな人もいるだろう。
本当に犯罪的なことが見られるのかどうかは精査しなくてはならないが、そう思っている地元の人がいるのは事実だ。
県外避難者の中にも、県内避難者の中にも、すばらしい方々がたくさんいる。感動的なほどに頑張っている人々が大勢いる。しかし、そうでない人もいる。
お金はあるのだが、仕事も仲間もいない人がいる。毎日毎日、パチンコざんまい、酒浸りの人たちもいる。店に行き、酒を飲み、酔ってからみ、トラブルを起こし、出入り禁止になる人もいる。
さて、こんな人をどうしたら良いだろう。福島県外の余裕のある善意の人なら、この方々を何とか支援したいと思ってくださるかたもいるだろう。すばらしいことだ。
しかし、そんな余裕がないこともある。あなただって疲れ果てているのに、そのあなたの家の隣に、昼間から酒浸りギャンブルざんまいの人がやって来たらどうだろう。口を開けばグチばかりだ。この人を歓迎できるだろうか。
もちろんこの人も、震災さえなければ、原発事故さえなければ、毎日元気に働いて充実した日々を送っていた人だ。簡単に責めることなんかできない。でも、この人を受け入れられない人を責めることも、私はできない。「避難者帰れ」の言葉は重い。
■被災地の苦しみ
テレビや新聞に大きく出るのは、見渡す限りのがれきの荒野や、打ち上げられた大きな船の姿だ。たしかに、とんでもない悲惨なことは起きた。福島第一原発の現状も、次々報道されている。インパクトがある。
福島第一原発の問題は、もちろん大問題だ。一日も早く廃炉に向けた作業を進めなければならない。しかし、福島第一原発を視察して感じるべきことは、作業員への支援と共に、原発の外の苦しみに耳を傾けることだ。
原発周辺の破壊されたままの町並みは、不謹慎な言い方だが、絵になる。報道され、見学者も来る。被災地の現状、福島県の現状を理解してもらうためには、必要だ。そこに住んでいた人々の苦難はとてつもなく大きい。
一方、一見大きく壊れていない町並みは、絵にならない。しかし、そこにこそ庶民の苦しみがある。
原発視察後、富岡町の方に町を案内していただいた。建物がしっかり残っている小学校を見た。体育館の窓から卒業式用の紅白幕が見える。今年の卒業式用ではない。3年前の卒業式用だ。震災と原発事故からの3年間、子ども達はだれもこの校舎に通っていない。片付けもできない。門柱も倒れたままだ。
富岡駅前には、津波で流されてきた家の「二階部分だけ」が、残されていた。衝撃的な光景だ。駅前の破壊されたままの建物群もある。他の場所なら、もうとっくに片付けられているのに。
もっと、「普通」の光景も見た。家の屋根には船は乗っかっていない。その方のご実家とオフィスの中を見せていただいた。生活感が残っている。本当に、急な避難だった。すぐ戻れると思っていた。
「時計は止まっていない」とおっしゃっていた。地震で被害にあい、その後3年間住んでいない家だ。ネズミのフンが散乱している。天井が落ちかかっている。床はカビが広がっている。雨漏りが始まっている。3年の間に、興廃は進んでいる。
テレビ的にインパクトのある絵ではない。しかし、その光景を見たときに住民が受けたショックに、私達は少しでも共感したい。派手さはなくても、ここに福島県民の苦しみがある。
家を流され、家族を失った悲しみが大きいのは、言うまでもない。でも、取り壊しも修繕もできない家を抱えている人がいる。家族の命は助かったが、仕事仲間と離ればなれにならざるを得なかった苦渋を味わっている人もいる。
■福島県の未来はどこに
福島第一原発の視察でお会いした方々は、みんな良い人だった。誠実な方、フレンドリーな方。いろいろな話ができた。たとえば今回お会いした福島復興公社の代表石崎芳行さんは、もと福島第二原子力発電所の所長で、とても評判の良い人だったと地元の方からうかがった。
原発を視察して思った。
空はこんなに青いのに、海はこんなに青いのに、みんなこんなに良い人なのに、それでも悲劇は起こっている。
原子炉内に溶けて残っている核燃料(デブリ)の取り出しか方は、今もわからない。世界中からアイデアを募集中である。人類の英知を集結して、問題を解決しようとしている。逆境を乗り越え、廃炉という困難な問題に私達は立ち向かっている。原発周辺地域は、一大研究都市になるだろう。
そんなお話を東電の方からお聞きした。普通なら、心が高揚する言葉だ。しかし、私の心は躍らない。私の心は沈んだままだった。
私の心が少し元気になったのは、新入社員の話を聞いたときだった。この状態の東電に入社しようと思ってくれた学生がいる。親の反対を押し切ってまで、東電で頑張ると言ってくれている人がいると、嬉しそうに東電の方が話しているのを聞いて、私の心に少し希望の光がともった。
福島第一原発のそばには、東電の火力発電所(広野火力発電所)がある。ここも、東日本大震災で大きな被害があった。普通なら、運転できなくなるはずだった。それを、職員のみなさんの必死の努力で切り抜けた。広野火力発電所のみなさんが作り出した、それは「奇跡」だった。
もしこの発電所が長期間止まっていたら、首都圏の電力事情はさらにひっ迫したものになっていただろう。
福島第一原発に隣接する福島第二原発も大きな被害を受けた。外部からの電源は途絶えた。緊急用の発電機もほとんどやられた。たった一台の緊急用発電機だけが生き残った。ただそのままでは、使えない。
福島第二原発のみなさんが、太く長いケーブルをみんなで抱えて人力で運び対処した。大変な作業だったという。福島第一原発でも第二原発でも何が起こるかわからない状況での行動だ。多くの人が、福島県民だった。
福島の復興のためには(それは日本の復興だ)、科学の力や政治行政の決断が必要なのはもちろんだ。そして、人々の力が必要だ。
東電で、原発で、火力発電所で、県内の様々な事業者や店で、学校で、病院で、自宅で、頑張っている人々がいる。県内で、県外で、頑張っている大人がいる。子どもがいる。みんなを応援したい。
ある福島県庁の方がおっしゃっていた。
「原発事故が起きたとき思った。自分は立場上一番最後まで逃げられない」。
「でも、県外避難の決断をした人を、支援したい。県内の人も県外の人も支援したい」。
アイ ラブ ふくしま
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○筆者による福島の親への動画メッセージ:ふくしま子育ての知恵発信事業・ふくしま親学ちゃんねる ほっとハグ
(音声が出ます)
○私が見た福島第一原発:使用済み核燃料棒は青いプールで静かに眠っていた