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【深掘り「どうする家康」】家督を継承した徳川家康は、ひ弱でおもちゃ遊びをしていたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまった。今回は徳川家康(竹千代)の家督継承と幼い頃の生活について、詳しく解説することにしたい。

 天文18年(1549)3月の広忠の没後、次期当主たる子の竹千代(家康)が織田氏の人質になっていたので、岡崎城は主がいない状態になってしまった。そこで、義元は太原雪斎を岡崎城に派遣すると、これを接収した。

 天文18年(1549)11月になると、義元は太原雪斎に命じて、再び三河に大軍を送り込み、安祥城に攻め込んだ。織田方も必死に応戦したが、同年11月9日に落城したのである。

 織田方の被害は、単に落城だけに止まらず、信秀の子・信広が捕虜になるという憂慮すべき事態に陥った。しかし、これは竹千代にとって大きな幸運となった。

 太原雪斎は竹千代の身柄を奪還すべく、捕虜の信広と交換する条件を織田方に持ち掛けた。この交換交渉は成立し、竹千代は今川方に戻ってきたのである。竹千代は危機を脱したのだ。

 しかし、竹千代は岡崎に滞在することを許されず、そのまま駿府へと送られた。義元は岡崎城に代官を派遣し、西三河における拠点を維持しようとしたのである。

 敗北した信秀の三河侵攻は失敗に終わり、天文20年(1551)に病没した(信秀の没年は諸説あり)。死後のことは、後継者として織田家の家督を継いだ信長に託されたのである。

 岡崎から駿府へと送られた竹千代は、どのような生活を送っていたのだろうか。竹千代がいた駿府の具体的な場所は、少将の宮の町(『三河物語』)、宮の前(『松平記』)、宮ヶ崎など、諸書によってさまざまである。

 幼い竹千代は、太原雪斎から学問を授けられ、祖母・於富から手習いを学んだという。ただ、いずれも近世の編纂物に記されたもので、史実か否か検討を要する。おそらくフィクションだろう。

 天文24年(弘治元年。1555)3月、竹千代は元服し、義元の「元」の偏諱を授けられ、「元信」と名乗った。元信は名実ともに、今川氏の配下に加わったのである。

 翌弘治2年(1556)6月、元信は一時的に岡崎に戻り、新当主のお披露目を行った。このとき家臣の鳥居忠吉は、松平家再興のために蓄えた、岡崎城の米や銭を見せたという逸話がある。こちらの話も家康を支え続けた三河武士を称えるもので、フィクションと考えられる。

 ドラマでは、家康がおもちゃで遊ぶ幼稚な姿が描かれていたが、今となってはわからない。フィクションと考えるのが妥当なようだ。また、武士のことなのだから、武芸には親しんでいたはずである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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