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ススキノ頭部切断事件被告の家族関係について反響を呼んだ精神科医・香山リカさんの最近の指摘

篠田博之月刊『創』編集長
7月1日の公判も大きく報道された(HTBニュースより筆者撮影)

 「頭部から右眼球を摘出する場面を父親にビデオ撮影させていた」といったあまりに猟奇的な話に日本中が震撼したススキノ頭部切断事件。7月1日の田村瑠奈被告の母親の第2回公判に父親が出廷し、3人の家族がどういう関係だったかが少しずつ明らかになっている。

 検察側によると、瑠奈被告は父親に対し「(母親を)熟女系の風俗にでも売り飛ばせばいい」と言い、母親には「私は奴隷です」との旨の誓約書を書かせ、リビングの目立つ場所などに掲示させていたという。

事件の背景に「家族」が…で思い出すあの事件

 裁判冒頭で明かされた猟奇性が世間を震撼させたという点では1989年に宮﨑勤死刑囚(既に執行)が逮捕された埼玉連続幼女殺害事件を思い出す。殺害した幼女の遺体を自室で解体していたことなどが明らかになったこと、裁判でも両親を否定し、父親が自殺した時には「胸がスーッとした」と述べたという宮﨑元死刑囚と両親の関係の異様さも、今回の事件と似た面がある。今回の瑠奈被告も引きこもり状態が続いていたとされるが、宮﨑元死刑囚もそうであった。

 私は宮﨑元死刑囚とは裁判の過程で10年以上深く付き合い、彼の著書『夢のなか』『夢のなか、いまも』を出版した。彼の事件や彼とのつきあいについては、何度も行った面会の内容も含めて拙著『増補版ドキュメント死刑囚』(ちくま文庫)に詳しく書いている。

 宮崎元死刑囚の事件も猟奇性ばかりが注目された面があるが、実は考えてみるべき多くの問題を提起している。「家族」の問題もそうだ。精神鑑定では「解離性家族」などとも指摘されたが、宮﨑元死刑囚は両親をニセモノだと言って忌避していた。ただ実際には、父親の自殺後、息子を支え、面会を重ねていたのは母親で、死刑が確定して接見禁止になってしまって以降も私が宮﨑元死刑囚と執行直前までやりとりができていたのは、母親の仲介があったからだった。

 今回のススキノ事件で家族関係や背景が明らかになっていくのはこれからだが、月刊『創』(つくる)では精神科医の香山リカさんが、連載コラム「『こころの時代』解体新書」で、田村家の家族関係について早い時期から考察を試みている。ちなみに香山さんも宮﨑元死刑囚の事件には大きな関心を寄せて多くの分析を行っており、前述した宮﨑元死刑囚の著書には彼女の解説も掲載している。

 その香山さんのススキノ事件の分析については、先頃、このヤフーニュースにも彼女の昨年の原稿を全文紹介し、反響を呼んだ。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/71fcac2cfff3efb9d04dcc1064878d0804c00520

異様な家族関係に社会が震撼したススキノ遺体切断事件.精神科医・香山リカさんの指摘に反響が…

 今回はそれに続いて香山さんが最近、『創』に書いたススキノ事件についての原稿を紹介しよう。見出しは「ススキノ頭部切断事件から考える家族の構造」だ。

ススキノ頭部切断事件から考える家族の構造(香山リカ)

 2023年7月2日、札幌・ススキノのホテルで当時62歳の男性会社員が殺害され、遺体で見つかった事件。メディアはよくこの事件に「特異な」という形容をつけて報じるが、今回は本当にそうなのか、そうだとしたらどこが特異であるのかを改めて考えてみたい。

 いや、事件そのものが特異であったことは間違いない。

 何よりも衝撃的だったのは、見つかった遺体には頭部がなく、それが7月24日に逮捕された殺人の実行犯と見られる当時29歳の女性の自宅の浴室で発見されたことだ。つまり、被害者の頭部は持ち去られていたのだ。また、その女性だけではなく、ほぼ同時にその父親と母親が逮捕されたのも世間を驚かせた。当初、殺人や頭部の持ち去りは、ひとり娘であった女性(以下、「娘」と記載)とその両親の家族3人が共謀のうえ計画的に行ったと見られていた。

 ただ、私自身はその時点で、「事件そのものは異様ではあるが、娘の心的構造や家族の関係性は本当にこの3人かぎりの特殊なものではないのでは」という直感を抱いた。子どもがとんでもない逸脱行為や犯罪行為の計画を口走り、両親は震え上がりながらも「やめなさい」と言えず「そうですか」などとあいまいな相づちを打つしかない、というこれまで診察室で何度も見てきたケースとどこか重なるものを感じたからである。もちろん私が経験した事例は、幸いにして子どもは計画を実行しなかったり失敗したりして世間を騒がせることはなく終わったが、あとから聞いて「一歩間違えばたいへんなことになっていた」とゾッとしたことが何度もあった。

 そのすべてのケースにあったのは、次のような病態であった。これを書いたのはパーソナリティ障害の精神病理に詳しい精神科医の市橋秀夫である。引用部分では「パートナーや友人」となっている部分を「家族」と置き換えて読んでほしい。

「彼らはパートナーや友人に対して『自分を無条件に抱え、魔法のように自分を理解し、決して見捨てない理想の母親である』ことを無意識に求め、そうでないときは失望し、あるいは怒り、さまざまな行動化を引き起こすことが基本的病態である。」(市橋秀夫「パーソナリティ障害は本当に減少しているのか?」『精神医学』61巻2号、2019)

 ちなみにこれは「境界性パーソナリティ障害」についての解説である。なお、ここで私はこれらのケースやさらに今回の殺人で実行犯と疑われる娘がこのパーソナリティ障害だった、と言いたいわけではない。ただ、こういった要求を家族や親しい人に対して突きつけ、それがかなわないと行動化(自傷行為、家族などへの激しい暴言、暴力、あるいは他者に対する犯罪行為など)を繰り返す。「そんなことになったらよそ様に迷惑がかかる」と家族はおそれ、「だったらこれをやって」とその代わりとして出される要求をのまざるをえなくなるのである。

娘が家庭内の支配者になるという構造

 要求の程度はもちろん千差万別だが、その繰り返しによって子どもが家庭内の支配者となって、ほかのメンバーはその顔色をうかがいながら服従してすごす、というパターンができていくのだ。そして、いったんそのパターンが始まると、自動的に子どもの要求はさらにエスカレートし、それがかなえられないと激しい怒りやその爆発による行動化が起き、家族はあわてて要求に従う、という悪循環が始まり、あっという間に揺らぎのない構造ができ上がるのである。家族は「こうやって子どもの言うことをきいていれば、いつかは“親はこんなにやってくれた”とわかってくれるはず」と祈るような気持ちで考えるが、構造化された後で子どもがハッと気づいて、「親がここまでやってくれたんだから自分も変わらなければ」と過剰な要求をやめたという事例はただのひとつも見たことがない。

 逮捕後、両親は弁護士を通じて「共謀はいっさいなかった」というコメントを発表した。事件を知ったのも事後であったとのことだ。ネットには「そんなわけはない」「だとしてもなぜすぐに警察に通報しなかったのか」といった声があふれたが、前述のような構造がもし長年、家庭内にあったとしたら、最近の一部報道にあったように帰宅後、「おじさんの首、持ってきた」と平然と告げたという娘に両親は震撼こそしても、それを非難することなど自分たちには許されないと思い、まして警察に娘を通報することなど想像さえできなかったに違いない。「ちょっと考えればおかしいとわかるはずだ」と思うかもしれないが、その「ちょっと考える」ことさえできなくなるのが、構造化ということなのである。

 2024年6月4日には母親の初公判が開かれ、検察側、弁護側の冒頭陳述でこの家庭にあったその構造がより具体的に明らかにされた。中でももっとも象徴的だったのは、母は娘に「お嬢さんの時間を無駄にするな。私は奴隷です。オーダーファースト」「奴隷の立場をわきまえて無駄なガソリン、お金を使うな」といった内容の契約書に署名させられた、というエピソードだ。その契約書はリビングルームに貼られていたようだが、そこは娘が親に要求して買った私物で埋め尽くされ、片づけると娘は激昂するので、母親は2階のわずかな空間で、日ごろ「ドライバーさん」と娘から呼ばれていた父親はネットカフェなどで寝泊りしていたそうだ。

 こういった話をすると、先ほども述べた通り「じゃ娘の診断は境界性パーソナリティ障害なのか」と言われそうだが、そうではない。ただ、この診断名が与えられた人たちの家庭によくある構造がこの家にもあったようだ、ということしか私には言えない。そして、ここから先は「診てもいない人のことを語るな」と叱られるのを承知で言うのだが、家では暴君として振る舞うこの娘の本質には、何らかの自己愛の傷つきがあったのではないかと勝手な想像をしている。

 先ほど引用した論文の著者である市橋は、自己愛性パーソナリティ障害についてその本質にある心的構造は、「思い描いている自分(誇大的自己)と取り柄のない自分(無能的自己)の二つの偽の自己に分裂している」ことだとした。これまた境界性もしくは自己愛性パーソナティ障害といった診断名にとらわれず、多くの思春期あるいは青年期やそれ以上の年齢のケースでよく見られることなのであるが、本人たちは「こうありたい自分」というややハードルの高い理想を抱いていながら、現実の自分はそれに遠く及ばないこともよく知っており、そのギャップにいつも苦しんだりイライラしたりしている。「自己愛性パーソナリティ」という言葉には、「自分はすごい、最高だと思い込んでうっとりしている人」というイメージがあるが、それだけならまわりの人もあまり苦労はしないのである。問題は、うぬぼれの一方で「私なんて何もできない、無価値な人間なんだ」という思い込みも強いことが、この人たちを苦しめ、周囲への攻撃を招く。

 市橋はさらにそのような心的構造の背景にあるのは、「甘やかされた過去、期待という親の欲望の照射(自己愛の照射)、早期自立による甘えの断念とプライドの獲得という生活史」だとしている。「あなたならできるはず」という親の励ましの裏には、「だって私の子なんだもの」という親の自己愛が隠れていることがある。逆に「できなかったんだね」という失望の言葉の裏にも、「私の子なのに」という自己愛が隠れている。それを敏感にかぎ取った子どもの自己愛は、一方で肥大し一方で矮小化する、というように二極分化していくのである。

無力感に支配され構造を解体する努力さえしなくなる

「勝手な解釈のしすぎだ」と言われるであろうから、この事件の一家についての言及はこれくらいにしておこう。ただ、これは誰もが言うことだが、核家族での生活があたりまえになり、町内会や親戚づきあいといった中間共同体がどんどん消滅する中で、家族に何らかの力学が働き始めると、あっという間に構造化のプロセスが進み、それが外からはいかに異様、いびつに見えようとも、家族の間では「ウチはこうなんだ」と考えて疑問を持てなくなっていく。あるいは、もし疑問を抱いたとしても、今さらどうにもできないという無力感に支配され、構造を解体しようとする努力さえしなくなっていってしまう。

 これは、決して「どこにでもある話」ではないかもしれないが、「あまりにもめずらしい話」ではない。では、どうすればいいのか、とよくきかれるが、とにかくまずは親が「これは尋常なあり方ではない」と気づくことから始めるしかない。私は、親に家庭を離れて本来の自分らしく時間を取ってもらう、というやり方をよく試すが、いまはSNSがあるので、趣味に打ち込んでいるときにも家庭の支配者である子どもから連絡が来て、服従のスイッチが入ってしまい、「もう帰ります」とその場を立ち去る人もいる。ただ、「すぐには変えられない。でも、本来これはおかしなことなんだ」と思うか思わないかで、ずいぶん違うように思う。「言うことをきいてあげていれば、いつかは目覚めて成長する、といった期待はやめましょう」ということは必ず伝える。

 もし子ども側が診察室に通ってくるケースであれば、とにかくこちらが子どもに操作されそこに新たな構造ができ上がらないようにする。ちょっとしたことでも「まあ来週、考えよう」と待たせたり、「どっちでもないんじゃないの」とあいまいさを受け入れさせたりする練習を少しずつ始める。「24時間はかかわってもらえない。でも見捨てられたわけじゃない」「自分は最高でも最悪でもない」といった感覚を体得していければしめたものだが、それが簡単なことではないのは言うまでもない。

 7月1日には母親の2回目の公判が開かれる。そこでまた新たに判明する事実はあるのだろうか。今回書いた以上のことはないようにも思うが、もし何かあれば、次回にも少しこの問題に触れることにしよう。それにしても、父親は優秀な精神科医であり、今回述べたようなこともすべて頭では理解していたはずだ。それにもかかわらず、我が家で生じた構造からは抜け出すことができなかったのだ。そう考えると家族というユニットの闇の深さに、暗澹たる気持ちになる。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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