Yahoo!ニュース

あの凄惨な北新地無差別放火殺人事件の被害者遺族が語った「その日から人生が変わった」

篠田博之月刊『創』編集長
2021年12月大阪・北新地で起きた放火殺人事件の現場(「創」スタッフ撮影)

クリニック院長を始め20人以上が殺害された

 2024年8月7日、伸子さんとお会いした。2021年12月17日午前10時過ぎに大阪・北新地で起きた心療内科クリニック無差別放火殺人事件の被害者遺族だ。

 この事件は、当時「拡大自殺」と言われたが、犯人の男性は、自分が死のうと思って、多くの人を道連れにするためにクリニックの床にガソリンをまいて火をつけたとされる。院長を始め二十数人が犠牲になった。

 放火した男性も亡くなったために、動機などの解明はなされず、裁判も行われなかった。たまたま当日、クリニックを訪れていた人たちが犠牲になり、しかも事件の真相は闇に葬られたままという、あまりにも理不尽な事件だった。

 伸子さんは、そのクリニックの西澤弘太郎院長の妹だ。前日に用事があって上京したというので、都内でお会いして話をした。

 伸子さんについては、2024年4月25日に大阪で行った講演と質疑応答を月刊『創』(つくる)7月号に掲載していた。「『死刑を止めよう』宗教者ネットワーク」の第34回死刑廃止セミナーでの講演だった。

「『死刑を止めよう』宗教者ネットワーク」は死刑に反対する超宗派の宗教家の集まりだ。ちなみに伸子さんも真言宗の僧侶をめざしている。今回のセミナーのタイトルは「後悔のないように生きる~被害者遺族として“心の孤立”にむきあう~」だった。

 このネットワークの代表である柳川朋毅さんはカトリックだが、死刑問題に長い間取り組んでおり、私ともいろいろな現場で顔をあわせている。

 北新地放火事件のような凶悪事件の被害者遺族が、事態をどう受け止め、その後どういう人生を歩んでいくか。それは大事なテーマであり、興味深いことでもある。セミナーでは、伸子さんの講演の後、柳川さんとの対談も行われた。全体としてかなり長いため、半分近くを割愛した。長いバージョンは月刊『創』(つくる)2024年7月号に掲載している。

 以下、伸子さんの話と柳川さんとの対談の一部だ。当事者の了解を得て、ここに掲載する。

大阪・北新地放火殺人事件の現場(「創」スタッフ撮影)
大阪・北新地放火殺人事件の現場(「創」スタッフ撮影)

その日から人生が大きく変わった

《私は歯科医師として主人と一緒に開業し、現在2人の子どもの母親でもあります。今は自分のやりたい活動に専念していますので、歯科医にはあまり携わってはおりません。

 2021年12月17日に北新地で起きた心療内科放火事件で、院長だった西澤弘太郎、私の兄が亡くなりました。

 その日から、本当に私の人生が大きく変わりました。

 たまたまその日は子どもの学校の用事があって、12時前ぐらいに、子どもと一緒にお昼を食べようとしていました。そこに携帯にニュース速報が流れたのです。梅田の北新地で火災というニュースだったので、そんなことがあるんだなと読み飛ばしてたんですが、また届いて、今度は心療内科火災ということでした。

 その時、心がちょっとざわついたんです。そこでネットの記事をよく見たら、兄の病院の窓ガラスが写っていたのですね。これは兄のところだ、間違いないと思いました。火の気なんてあるわけないから、放火だろうなと、一瞬で思いました。

 すぐ義理の姉に連絡したところ、もう姉は現場に向かっているということでした。私も子どもを連れて現場に向かいました。火災発生から2~3時間たっていたので、周りは本当に騒然としていました。救急車とか消防車がものすごい数止まっていました。

 その中で現場に入らせてもらったのですが、そこにいる警察官に聞いても何もわからない、どこに兄が運ばれたかもわからないという状態でした。でもネットのニュースでは、どこどこ病院に何名搬送とか、そういった記事がどんどん出てくるんですね。あ、報道ってこういうものなんだなと思いました。

 そこにいても仕方がないので、それぞれ家に帰っていたら、どんどんテレビのニュースでいろんなことが流されていきました。兄かどうかもまだわからないし、何とか生きてるんじゃないかという気持ちもあったので、何も考えずにいようと思いました。

 そしたら夜の10時ちょうどに母から連絡があって、お兄ちゃんが亡くなったと聞かされました。警察署に遺体があるということなので、大人だけでみんなで向かったのです。車の中で誰も泣かなかったですし、ひと言ふた言しゃべるというような感覚でした。

伸子さん(右)と柳川さん(2024年8月7日筆者撮影)
伸子さん(右)と柳川さん(2024年8月7日筆者撮影)

兄と対面したのは夜中の12時過ぎだった

 兄は最初に行った警察署にはいなくて、警察の方とお話しすると、違う署にいますということなので、そこからまた移動して、兄に対面したのは夜中の12時を回っていたと思います。本当に寒い日でした。

 こんなことがあるんだなと思ったのは、安置所というのは病院か警察署の中というイメージがあったのですが、私が見たのは駐車場の一角でした。もっときれいに入ってるのかなと思ったのですが、ただ袋に入っているだけでした。 

 でもすごくきれいな顔でしたね。一酸化炭素中毒だったので、火傷もしてませんし、きれいな状態の兄と対面できました。家に帰ったのは夜中の3時頃だったと思います。

 私はずっと、兄がいて私がいるという感じで生きてきたのですが、兄と対面するために向かう車の中で感じたことは、その兄がいなくなってしまった。これで私がこれから両親を支えなきゃいけないんだという実感でした。泣き言とか言っている場合じゃないなと思いましたし、自分が両親を支えていかなきゃいけないと自分の中でそう決意しましたね。

 兄とは、どこにでもいるような兄妹だったと思います。特別すごく仲が良かったわけでもないですし、少し年が離れているのであまり関わることがなく大きくなったというのが正直なところですが、お正月には必ず会うと決めていました。でも兄もすごく忙しくしてまして、正月も2~3時間、みんなでご飯を食べたらもう解散という感じでした。

 今度はゆっくり話そうと思っていたので、その機会がなくなってしまったことが悲しかったですね。

それから2年余、いろいろな活動を

 それからこの2年4カ月、いろんな活動をしてきました。ただ今思うと、大きな目標を立ててやったことって一度もないんですね。今日のお題にもあるように、孤立をなくそうと思って、最初から活動していたわけではないのです。結果的にそういうふうにつながっただけです。

 いつも私が大事にしていることは、今、目の前にあること、自分ができることは何なのか、私にしかできないことは何なのか。それをすごく今も大切に活動しています。それに付け加えるならば、自分のやりたいことだけをやろう、やりたくないことはやらない。例えば、兄の遺志を継いでとか、兄の妹だからやるってことは一切ありません。全て私がやりたいことしかやらない。それをモットーに活動しています。

 私は事件直後、いろんな情報は全部、新聞やテレビ、ネットニュースから得ていました。ネットニュースでは、事件直後、本当にたくさんの方がコメントを書いていらっしゃったんです。

「あのクリニックの患者でした。明日からどうやって生きていけばいいかわかりません。次の病院はどうしたらいいんでしょうか?」

 そういうコメントを見て私は、何もできない自分のふがいなさを感じていました。それが1カ月ほど続いた後に、たまたまネットニュースで、福祉事業をされている障害者ドットコムさんが、利用者さんの1人が、あの事件で亡くなられたということで、オンラインサロンをするというのを見たんですね。

 私もここに行けば患者さんに会うことができる。そう思ってお邪魔しました。そこで元患者さんたちと出会うことができて、それからは月に1回か2回ほどオンラインで交流させていただいています。またリアル交流会ということで実際にお会いする機会も今作っているところです。

 その後に、公認心理師の土田先生という方にもお会いしました。その方のもとで兄もカウンセリングを学んだことがあったんですね。私もオンラインサロンで障害をお持ちの方とか、精神的なご病気の方とかに接したのですが、何かを言うことで傷つけてしまうんじゃないかと思ってずっと黙ってたんですね。聞くだけしかできなかったんですが、その先生のもとでカウンセリングの基礎を学ばせてもらいました。

 先生も自分の教え子が亡くなって何かしたいということで居場所づくりとして、ナチュラルカフェというものを、芦屋で続けてきました。1カ月に1度ですけれども、何か話をしませんかということで集まっていただいたり、今年の4月からは西明石で、月に1度活動しております。

 その後カウンセリングのことも勉強しましたので、やっぱりいろんな方のお話を聞きたいと思って、堺でレンタルスペースを借りて人の心に寄り添う、心の整理をしませんかという活動をしています。その時に、実は自分の家族がうつで自死したとか、皆さんよく話してくださいました。ご主人と何十年も暮らしているけれども、実はすごいモラハラにあっていて、ずっと言えなかったという方もいらっしゃいました。皆さん、言いにくいことを本当にたくさんお話してくださったと、私は今でも感謝しています。

 元々、私は神道に興味があったんですが、活動を通してやっぱり人の心に寄り添うということが仏教と重なるなと思ったんです。仏教に携わることができれば、もっといろんな方が話してくれるんじゃないかなと、私は得度を受けるために2023年6月から奈良のお寺に通い、12月には得度を受けることができました。

京都アニメーション事件裁判の傍聴も

 2023年9月には、京都アニメーション事件の裁判を傍聴する機会がありました。その時取材を受けた記者の方に、「京都アニメーション事件と北新地の事件には似てるところがありますね」と言われました。ガソリンを使ったこと、たくさんの方が亡くなったことなどですが、「どうすればこういう事件を防げるんでしょうか」。そんなふうに聞かれました。

 最初は正直、そんなことわかるわけないと思ったんですけど、いろいろ考えた末に思ったことは、再犯を防止できていれば何か違ったかもしれないということでした。事件を起こした2人とも再犯だったのです。いったい刑務所ではどんなことをしているんだろう、更生って何なんだろうと考えました。

 私に今できることは、そうやって出所してきた人の話を聞くことではないか、それならできると思って、昨年の暮れに奈良のワンネス財団というところに連絡をしました。そこは依存症の方が多いのですが、いろんな方を受け入れており、出所してきた方も何人かいらっしゃるということでした。今、月に2回、そのワンネス財団に行かせていただいて、いろんな方のお話を聞いています。

 取材を受けた時の記者の方って、肯定も否定もせず、とにかく聞いてくださった。私はそれらの質問に答えることで、心の整理もできたし、話すことでたぶん癒されていたんだと思います。それを体感したので、やっぱり何かを話すという機会を作ることはとても大事なことだと思いました。だから私は聞くということを大事にしていますし、話す場所を作ろうと活動しています。

 私の子どもが実は小中高とカトリックの学校に通っていまして、小学校の時に創立者の方がおっしゃった言葉に「あなたのできる良いことは何でもなさい」というものがありました。私はその言葉が大好きで、それも今している活動の基盤になってるんだろうなと思います。

 冒頭にも言いましたように、自分は目の前にあること、自分にしかできないこと、今自分がやらなければいけないことは何なのかを、常に考えてきました。

 私1人の力では2年4カ月でこんなふうになっていなかったと思うんです。私はそこに見えない存在の力が働いたと思っています。自分が何かしたくて一歩を踏み出すことが、少しだけそよ風を起こすことがある。それを求めている人が世の中にいれば、きっとその見えない存在がそこに風を大きく起こしてくれる。そう思っています。

 私はその風に乗っているだけと感じています。何か大きな目標を立てて行動してるんじゃなくて、とにかく今、目の前にあることに集中して一生懸命向き合う。そうすることで、おのずといろいろ出会う人であったり、起こることであったり、それはやはり、私は見えない存在が用意してくれてるんだと信じています。

 本当に兄の亡くなったあの事件は、大きな事件で、たくさんの方が亡くなられて、今もなお苦しんでおられる方もたくさんいらっしゃると思います。

 私はもし兄に今何か言えるのであれば「ありがとう」と言います。今こうしてできていること、いろんな方に出会わせてもらっていることは、兄が残してくれたものだと思っています。

 人生生きていれば、大変なこともつらいこともいろんなことが起きると思います。でも、それをどう捉えて、どう向き合っていくかによって、道は広がると思います。今日の私のお話が、これを聞いてくださっている方の何かのきっかけになったらいいなと思います。》

柳川朋毅さんとの質疑応答

《柳川 話の中でも出てきた京都アニメーションの放火事件ですが、2つの事件には共通点もありますが、違う点もあります。京都アニメーション事件の場合は、加害者である青葉さんは一命を取り留めて裁判にかけられましたね。1審は死刑判決で今控訴しているところですけれども、その一方で北新地の事件は、加害者である谷本さんは命を落としてしまった。京都アニメーション事件の裁判の傍聴にも行かれたということですが、どういう印象をお持ちですか。

伸子 この人が犯人ですよと言われた時、この人があんなことをしたんだと思いました。怒りというよりも、あんなひどいことをする人がいるんだと感じました。

 でも京都アニメーションの裁判を傍聴して、被告の話はちょっと理解できないこともあったけれど、すごく冷静に答えているなという気がしました。傍聴した時にご遺族の方の数が本当に多くて、席が足りずに傍聴席にまでいらしたのを目の当たりにした時に、この事件の大きさを感じました。悲しんでらっしゃる方の感覚というか、感じるものが大変大きくて、自分もいたたまれなくなって涙しました。

 私が北新地の事件で、この人が容疑者ですというのを初めてテレビで見たときに、実は何にも思わなかったんです。もっと腹が立つのかな、怒りで何かをしてしまうのかなと思っていたんですが、そうでなかったことに自分でもびっくりしました。ああ、この人なんだ、という感じでしたね。

柳川 私も実は京都アニメーション事件の裁判の傍聴に行ったことがあるんです。青葉さんは車椅子で入廷して、透明なパーテーションで厳重に囲われていましたが、遺族ないし関係者であふれかえってる法廷で審議がずっと続いていくわけです。三十何人犠牲になったということをニュースでは聞いて知っていましたが、やっぱり実際にあれだけの数の遺族や関係者がいるという現実に圧倒されました。

 北新地の事件についてもう少しお聞きしたいんですが、他のご遺族の方とは、その後何かやり取りというか、交流を続けてらっしゃるんでしょうか?

他のご遺族と出会えたらとコンサートを企画

伸子 なんとかして教えてもらえるんじゃないかなと当初思ってたんですけれども、やはり個人情報ということで、警察の方からは教えられませんと言われました。裁判も行われませんし、他のご遺族の方と会う機会は全くないし、つながりもなかったのです。

 だからこそ、ピアニストの友人が1年に1度コンサートをしようと言ってくれて、5年でも10年でもそのコンサートに誰かご遺族の方が来てくださるのを待つことにしましょうと言ってくれて、それを昨年12月から始めました。

 ご遺族の方が集まれる場所があったらいいね、音楽を通してつながっていく、癒されるということを大切にしていきたいということで、12月に始めたばかりなんです。私もモノリナという楽器を弾いています。これはドイツの音響療法で使うハープみたいな楽器なんですが、それを弾いて、友人がピアノを弾くというふうに、いろんな方が集まっています。今のところ、そういう機会に連絡をくださるのは兄の医院の患者さんの方が多いですね。被害者遺族の方からはまだ連絡はありません。

柳川 もちろん遺族といってもいろんな立場の方がおられるわけですね。だから一般化することはできないんですけれど、実際に遺族という立場になってみて、こういうところにサポートがあればよいのにとか、何か見えてきたことはありますか?

伸子 私は妹ですので、金銭的補償を受け取るという立場ではありませんが、そういう立場の方もいらっしゃるし、日本はまだまだそういったところが遅れていると思います。海外では被害者遺族の方は必ずカウンセリングを受けるという形になってるようなんですが、日本は、もしよければ受けてみては、という形です。でも話すということはすごく大事だから、そういう機会をもっと作っていただけたらよいかなと思いますね。

柳川 この事件に関しては、裁判は行われないわけですし、損害賠償を加害者に直接請求することもできないという意味で、法的サポートもなかなか得られにくい部分があると思うんです。そういったところはまだまだ日本は足りてないところが多くあるのかなと思います。

柳川 この事件の重大性とか結果の重大性もさることながら、個人的に気になっているのは、谷本さんの前科の部分ですね。殺人未遂という形でご家族に刃物を向けたということで4年間服役をされていたと報じられています。その服役した先が、島根あさひ社会復帰促進センターという、比較的、受刑者の社会復帰に力を入れている刑務所なんですね。かなり先進的な取り組みもしているところで、実際そこの再犯率は目に見えて低いというようなこともあるんです。

 ただそこで4年間過ごした後にこのような重大な結果をもたらす事件を起こしてしまったことに、私自身はショックとか悲しみを覚えたんです。私も全国各地の死刑囚とか受刑者によく会いに行くんですが、ある死刑囚と話していたときに、やっぱり彼も島根あさひの服役経験があったんですね。ただ結局、社会復帰がうまくいかず、刑務所と社会を出たり入ったりして、最後死刑になるような罪を犯した時も、刑務所から出てきた数日後に人の命を奪ってしまったんですね。

 彼といろいろ話をしている中で、刑務所を出ても社会復帰ができないままさらなる罪を犯してしまうという2人の人生が、私の中で交差する部分があったんですね。

 もちろん、ご遺族の悲しみを忘れてはいけないし、加害者のことを含めて事件を風化させてしまってはいけない。こういうことを二度と繰り返さないためにできることは何だろうということを、私個人はすごい考えさせられたんです。当事者である伸子さんはそのことについていろいろと考えて、行動を起こしていらっしゃるわけですよね。

 今日のテーマでもある心の孤立、孤独というのをどう防ぐのか、そして犯罪に走ってしまう、自暴自棄になってしまうのをどう防ぐのかという、その取り組みについてお話いただけないでしょうか。

伸子 大きなことを掲げても、そこに行き着くまでにすごい年月がかかったり、行政が介入するとさらに時間がかかってきます。私の場合は、もう今すぐ何かをやって、結果を見たいという思いがあるんですね。

 だから、一対一でとか、今目の前にいる人に対してというふうに考えます。それ以上の大きなビジョンは実はあんまり持っていないのです。犯罪者を出さないためにも、被害者を生まないためにも、自分ができることだけを続けていきたい。刑務所におられる方にも直接会って、気持ちを少しでも変えられないか、ご自身の中で気づくことがあるんじゃないかと考えています。》

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

篠田博之の最近の記事