終戦75年の靖國神社で思ったこと~特攻隊員の思いに私たちは応えているか?
8月15日正午。東京・九段下、靖國神社。玉音放送が流れ全国民が敗戦を知ってから75年となるその時。体が溶けるかと思うような猛暑の中、何千何百の参拝者が訪れ、本殿参拝のため列を作っていた。コロナ禍の中、きちんと間隔を空けながら。老若男女、様々な人がいる。この日はすべての日本人にとって大切な日。その日に靖國神社を訪れようという人がこれだけ大勢いる。
参拝をし、記念撮影を済ませて帰る人もいるが、靖國神社には遊就館という資料館もある。その館内も多くの人で混み合っていた。いろいろな展示がある中で、私は次の2つに目をとめた。
一つは沖縄戦で海軍の指揮官だった大田實海軍少将が自決前に本土に打電した有名な電文。「沖縄県民斯く戦へり 県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」
もう一つは、海軍報道班員だった山岡荘八の記事に描かれている特攻隊員の言葉。彼はこう語ったという。「学鷲(高等教育を経た航空隊員)は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです。…おわかりでしょう。我々の生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに…」
こう語った西田中尉は、それから間もない昭和20年(1945年)5月11日、500キロ爆弾とともに飛び立ち、帰らぬ人となった。
私たち今を生きる日本人は、この人たちが命を賭けて託した思いに応える義務があるだろう。「民族の誇り」に。では、今の我が国は西田中尉の思いに応えているか?
西田中尉は何と戦っていたのか? もちろん米軍だ。特攻はすべて米軍の艦船をターゲットにしている。当時の日本は中国ともイギリスとも戦っていたが、最強の敵はアメリカだった。アメリカに対し、国威を賭けて戦っていた。その大義に特攻隊員は殉じた。では戦後どうなったか? 西田中尉が語ったように「我々の生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっ」たのか?
現代の我が国では、西田中尉にとっての敵軍、アメリカ軍が日本国土の各地に駐留し、「思いやり予算」の名の下に私たちの税金で駐留経費の一部を賄い、さらにはあろうことか「日米地位協定」の名の下に事実上の治外法権をほしいままにしている。かつての敵軍に治外法権を許す、これを特攻隊員達が望んでいたのか?
しかも、海軍司令官が「特別の御高配を」と願った沖縄に対しては、サンフランシスコ講和条約で日本が主権を回復した後も米軍の施政権下に置いたままにして、事実上「人身御供」に出した。沖縄返還後も全国の75%の米軍基地が沖縄に集中し、駐留米軍人は治外法権をいいことに、あたかも植民地の如く我が物顔に振る舞っている。これが「民族の誇り」のために命を散らした特攻隊員の思いに応えることになるのか?
そしてさらに私は赤木俊夫さんのことを考える。公務員にあるまじき公文書の改ざんを上司に命じられ、反対したのに無理矢理やらされた、財務省近畿財務局の職員。「こんなことは公務員がしてはならないことです」と反対したのに聞き入れられなかった。無理矢理やらされた後は、人事異動で自分だけその職場に残され、命じた上司らはみな転勤していなくなった。「自分だけの責任にされる」とおびえ苦しみ、心の病が深まって、自ら命を絶った。「これが財務官僚王国。最後は下部がしっぽを切られる。なんて世の中だ」という悲痛な言葉を書き遺して。
それで上司達はどうなったか? 「赤木さんを食い物にして全員、異例の出世をした」と告発する文書が、妻の赤木雅子さんのもとに届いた。そしてそこに書かれていた異動は事実だった。
どこか特攻隊員の姿に似ていないか? 特攻隊員を死地に送り出しておきながら、終戦時、責任をとって自決したのは神風特別攻撃隊の創始者、大西瀧治郎海軍中将ただ一人。後は誰も何ら責任を負わず生き延びた上官達が多かった。満州でも、開拓民達をほったらかしにして、一足先に逃げた関東軍幹部が多かったと聞いている。これは卑怯者のすることだろう。特攻隊員が殉じた「民族の誇り」から一番遠くにあることだ。
特攻隊員の心情に思いを致すなら、まず米軍の治外法権は撤廃すべきだ。そして赤木俊夫さんのことは、財務省ではなく、第三者の手できちんと再調査して真相を解明すべきだ。それでこそ正義の国になる。今のままでは「卑怯者と嘘つきの国」である。これでは特攻隊員は浮かばれない。
真実を愛する国であってほしいという願いを込めて、赤木俊夫さんの妻、雅子さんは私と共著『私は真実が知りたい 夫が遺書で告発「森友」改ざんはなぜ?』を出した。8月18日には国を訴えた裁判の法廷に立つ。その後の記者会見には俊夫さんの遺影とともにこの本も持参するつもりだ。
【執筆・相澤冬樹】