伊達政宗が「独眼竜」と称され、眼帯を着用していたのは事実か?
今でも眼病を患い、眼帯を着用することはある。伊達政宗が「独眼竜」と称され、眼帯を着用していたといわれているが、それは事実なのだろうか?その点について考えてみよう。
幼い頃の政宗が不幸なことに天然痘に罹り、片目を失明したのは事実である。その影響により、政宗はすっかり引っ込み思案になっていた。そんな政宗を心配したのが側近の片倉小十郎である。
小十郎は小刀で片目をくり抜くと、その傷を隠すため刀の鍔の眼帯を与えた。すると政宗は快活さを取り戻し、のちに奥州を席巻し諸大名を打ち破ると、伊達家を幕末維新期まで存続させる基礎を作った。とはいえ、このエピソードは疑わしいとされている。
戦国時代において、政宗を「独眼竜」と書いた史料は発見されていない。天保元年(1830)、儒学者として名高い頼山陽は、「詠史絶句」で政宗のことを詠み、初めて「独眼竜」と称した。これが、政宗を「独眼竜」と称するきっかけとなった。
そもそも「独眼竜」とは、中国の唐の時代の末期に活躍した李克用の異名だった。李克用は優れた武将として知られており、山陽は政宗を李克用になぞらえて、「独眼竜」と称したのだろう。山陽によって、政宗が「独眼竜」であると広まったようだ。
とはいえ、政宗が眼帯を使用していたという記録はない。仙台市博物館が所蔵する伊達政宗の肖像画(狩野安信作)は、政宗の遺言に従って、両目が開いた状態で描かれている。政宗の死後に制作された肖像画や木像は、両目を入れて右目をやや小さくしている。
昭和17年(1942)、「獨眼龍政宗」という映画が上映され、眼帯を着用した政宗が初めて登場した。しかし、以降は眼帯を着用した政宗の姿は描かれることなく、片目を瞑った状態で登場することが多かった。
昭和62年(1987)、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で主役の政宗役を演じた渡辺謙さんは、右目に方の鍔を用いた眼帯をつけて登場した。以降、この姿が「独眼竜」の政宗の姿として、定着したのである。