東日本大震災 大学の災害救援隊の記録 #あれから私は
地震の直後、刻々と入る被災地の高等専門学校(高専)からの状況。津波や放射線による被害の状況が不明の中で、とにかく今必要なものを届けなければ。中越地震でのノウハウを載せて長岡技術科学大学からの災害救援隊が出発した。
あの日、長岡では
2011年3月11日14時46分、新潟県にある長岡技術科学大学では全国の高専の女性教員や学生を対象に、女性研究者のキャリアアップのための集会を主催していた。会場となったマルチメディアシステムセンターでは、ギシ、ギシという不気味な音が聞こえたかと思うと、ゆっくりだけれども振幅の大きい揺れが始まった。感覚的には揺れは激しくなかった。揺れが長時間続く中で、普通に座っていられたし、歩くこともできた。ただ、これまでの経験で「遠くの大きな地震」であることはわかった。
すぐにインターネットにアクセスすると「東北地方で震度6」という速報が飛び込んできた。(その後、最大震度は7となった)まず集会の会場にいる福島高専、仙台高専、一関高専、八戸高専からの参加者にはすぐに帰宅の準備をお願いした。(その後、東日本の交通網がマヒしていることがわかり、長岡に滞在することになった)そして、当時の新原皓一学長の下に学内の災害対策本部が設置されて、東北地方に出張などに出かけている学生や職員の安否確認が進められた。
本学では高専からの編入学生が特に多い関係から、高専とのつながりは密接だ。そのため、上述4高専の状況確認も行われた。なかなか電話がつながらない中で、津波の映像がテレビの実況で流れ始めた。学生、教職員に津波の何らかの影響があると考えられる高専として順位付けし、連絡が取れないにしても、仙台高専(名取キャンパス)、福島高専、一関高専、八戸高専の順番で大学からの災害救援隊の派遣をその日の夜に対策本部にて決定した。ただ、3月12日午前3時59分に発生した長野県北部地震では長岡も大きく揺れて、大学や長岡市内の被害状況の把握作業が重なったのには、少々霹靂とした。
中越地震の経験
新潟県長岡市とその周辺では、2004年10月に中越地震を経験している。国立学校では本学と長岡高専が被災し、全国から災害救援隊が駆けつけてくれた。筆者は、赤十字災害ボランティアリーダー資格を有していて、当時、長岡市にて全国の災害救援隊のうち特に全国から集まった医療チームの受け入れを担当した。
その時の経験で、災害救援隊が必要なものとして「緊急通行車両標章」の交付を警察署で受けなければならないことを知っていた。大震災等の大規模災害等が発生した場合、災害対策基本法等に基づく交通規制が実施され、特に高速道路の車両の通行が禁止される。ただし、災害応急対策等に従事する車両は、所定の手続きを受けると標章が交付され、標章を車両に掲示することで規制区間を通行することができる。翌日には長岡警察署の出向き、東日本大震災関係では長岡警察署管内で2番目となる標章の交付を大学の2tトラックに受けた。
そして、中越地震の際に全国から集まっていた救援物資を大学の備蓄倉庫に保管していたのも奏功した。「被災地では何が必要なのか」考えなくても倉庫にある資機材や食料を2tトラックに詰めるだけ詰めればよかった。多くの事務職員の協力を得て救援物資の積み込みを短時間で終えることができた。後は出発するだけだった。
原子力発電所の水素爆発
12日になって、福島第一原子力発電所の複数の原子炉温度が上昇しているというニュースが流れはじめて、いやな予感がした。当時の新原学長は原子力工学科の出身、筆者も第一種放射線取扱主任者の免許を所有していることから、なんとなく次に来る災害が想定できた。対策本部で打ち合わせをして、結局、救援隊の派遣について週末は様子を見ることになった。
そうこうしているうちに、12日15時36分、同発電所1号機の原子炉建屋が水素爆発を起こして大破した。当初はどのような種類の爆発か、長岡からでは判断できなかった。そのため考えうる最悪の原子炉事故を想定し、救援隊の派遣先リストから福島高専を除いて、14日に向かう目的地として仙台高専名取キャンパスに候補を絞った。そして救援隊員には仙台高専に在籍していたことがある本学の芳賀 仁 助教(当時)と磯部広信同窓会会長(当時)にお願いした。
仙台高専の状況
救援隊は無事に長岡インターから高速道路に乗り、仙台まで高速道路を使ってたどり着くことができた。到着は夜中だったにもかかわらず、高専の事務職員がきちんと対応してくれた。発電機と照明はもっとも役に立った。暖房器具と灯油もたいへんありがたがられた。トイレが使えなかったので、簡易トイレも活躍したし、すぐに食べられる非常食なども大量に手渡すことができた。
仙台高専名取キャンパスは災害時の避難所に指定されていたため、多くの住民が高専に避難してきていたのだ。避難所に指定されていても、緊急物資の備えは少なく、もちろん校内から帰宅できない学生や教職員の物資もほとんど割り当てられない状況だった。多くの人が暖をとるほどの暖房器具はないし、灯油の在庫もすぐに底をつきた。避難所の指定を受けても、様々な物資の保管などの実を伴っていないと、とんでもないことになることをまざまざと知った。
ちなみに被災後、仙台高専では無停電の照明システムなどを校内に導入している。福島高専に至っては、自家発電用のタービンを導入し、災害による停電に対応できるようになっている。
一関高専・八戸高専への災害救援
15日には本学の留学生の間で不安感に駆られる学生が出始めたので、留学生をマルチメディアシステムセンターに集めて、地震や原子力発電所の事故の説明を行った。これは中越地震の時の教訓である。そもそも人生において地震を経験したことのない学生が少なからずおり、どうしていいのかわからない。大学として今の状況と、今後どのような情報を確認すればよいのか、しっかりと説明した。
また、福島県の特に海岸部にお住まいの方々の長岡市やその周辺への避難が始まった。市内の施設に受け入れる際の放射線モニタリングの必要が想定できたので、本学の放射線の専門家に声をかけて長岡市から要請があった場合の協力を依頼した。
対策本部として大学にて行うべきことの下ごしらえがおおよそできたので、筆者自身がいよいよ被災地に向けて17日に災害救援に向かうことになった。パートナーは東京高専での先輩後輩の間柄である河原成元准教授(当時)で、2人で交代して2tトラックを運転して高速道路を使って岩手県と青森県に向かった。
とにかく、夜通しで運転して18日の早朝にはまずなんとか一関高専に到着しようと頑張った。18時に大学を出発して、20時前に新潟県阿賀町の磐越道検問所を緊急通行車両として通過。磐越道では、福島県から新潟県に向かうたくさんのバスとすれ違った。後で知ったのだが、原子力発電所の爆発事故をうけて福島県から避難してきた方々を乗せたバスだった。あまりにもたくさんの数のバスで、「放射線モニタリングの要請がすぐにでるな」と直感し、すれ違うたびに災害救援活動後に早く大学に戻らねばと思った。
磐越道、その先の東北道の路面は所々凍結していた。そして東北道に入り北進するに従って時々雪が降り、路面は地震の影響でガタガタしていた。九州からの災害緊急援助隊(警察)の車列は流石にゆっくりと走行していた。その横の追い越し車線を走行し、何組かの車列を追い越した。
パーキングエリアで休憩をしていると、品川ナンバーのパトカーも休憩に入った。警視庁のパトカーで災害緊急援助隊だった。パーキングエリアでは全国各地から派遣された警察、消防、自衛隊の車両を多く見かけた。
18日午前6時半に一関高専到着。校長先生ほか、数名の教職員の方々が宿直されていた。ここでも高専が避難場所に指定されていて、近所の方々が避難していた。やはり、灯油がない、食料もないという状態で、このあたりはトラックにたくさん積んでいたので、役割は果たせたかと思った。
一関市内では、ガソリンスタンドに向かって自家用車が長蛇の列。皆、ガソリンスタンドに燃料が到着するのを待っているとか。当然灯油も底をつきて、誰もが寒さをこらえている様子だった。高専の職員の中にも、「実家が気仙沼にあるが、連絡が取れない。車で実家に行きたくてもガソリンが底をついている」と悲しそうだった。結局そうなのである。家族や親せきが待つ津波の被災地に向かおうにも、ガソリンがない。どうしようもないやるせなさが伝わってきた。
午前8時には一関高専を出発。東北道を北進し八戸と向かった。途中、前沢サービスエリアに立ち寄りトラックの燃料を補給しようとしたら、「ガソリンはあるが、軽油はなくなった」とのこと。当時は、緊急通行車両として認められたのは物資を運ぶトラックと医療従事者を乗せた乗用車。そのため、トラックが通行車両のほぼを占めたために、軽油だけが高速道路上のガソリンスタンドではどこでも底をついた状態だった。そして、一関市内のガソリンはなくなって、高速道路上のガソリンは十分残っている状況。これが緊急事態だと思った。
さて、八戸高専にはお昼頃到着。物資を高専に無事に引き渡すことができた。この時間軸で余震による津波の恐れが大分引いてきたので、救命胴衣を準備し、警戒しながら八戸高専すぐ近くの海岸部に津波被害の状況視察のために向かった。
八戸市内海岸部における津波被害
震災から8日目の津波被害の様子。1週間以上経っているので、片付いているかと思ったら、とんでもないことだった。
八戸高専から八戸港に向かうと、高台から港に下がる坂の途中に魚介類を販売するお店が並び、そのあたりから津波の被害を見て取れた。この先、様々な被災地の津波被害の様子を調査することになるのだが、全てにおいて「ここから先が津波被害を受ける」という境を見ることになった。
八戸港ではフェリーターミナル付近で多くの放置車両があった。中にはひっくり返っている車両もあった。岸壁では、多くの船が陸に上がっていた。「元々、船は海水に浮いているので、海面の水位が上昇すれば簡単に陸に上がってしまう」と頭ではわかっていても、実際にそれを目の当たりにした時のショックは大きかった。
まとめ
震災から1週間の様子を当時のメモを参考にしながら本稿を綴った。八戸から長岡に戻って、大学周辺施設において福島県から避難された方々への放射線モニタリング業務の立ち上げなどいろいろなことをやったが、次の1ヶ月では津波災害の情報収集が主な業務として続いた。これから数回に分けて、その様子を連載する予定だ。