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[高校野球・あの夏の記憶]ダルビッシュ有(現パドレス)が見せた涙

楊順行スポーツライター
(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 2003年夏の甲子園。決勝は、東北(宮城)と常総学院(茨城)の対戦となった。東北のエースは、2年生のダルビッシュ有。ストレートは150キロに迫り、宮城大会・気仙沼向洋との準決勝では、先発で5回を投げ、11人連続を含むなんと13三振を奪っていた。ただ、技術も体もまだ成長途上。甲子園では成長痛に悩まされ、筑陽学園(福岡)との初戦では、先発して2点を失うとあっさりマウンドを降りた。

 それでも近江(滋賀)、平安(現龍谷大平安・京都)との2試合は連続完投。ことに平安戦では延長11回、15三振を奪って2安打完封と、その怪物ぶりを見せつける。ただ、救援で3回3分の1を投げた光星学院(現八戸学院光星・青森)との準々決勝で右足を痛め、準決勝は登板を回避した。そして迎えた常総との決勝。当時東北の監督を務めていた若生正広さんに、かつて聞いたことがある。

「甲子園球場の正面、関係者入口から入ると、決勝の日だけは、通路に深紅の優勝旗が飾ってあるんだよね。よ〜し、オレたちがこれを持って帰ろうじゃないか……と、思わずその旗にこっそりさわりましたよ」

 当時はまだ、優勝旗が白河の関を越えていない。一方、対戦相手の常総・木内幸男監督は、この大会限りでの勇退を決めていた。つまり、木内監督が有終の美を飾るか、それとも東北勢の初優勝がなるか、という決勝だった。

「木内さんとは、練習試合などで顔見知りだったから、監督会議で顔を合わせたときも、"若生さんとこ、強いっぺ?"。そんなことないすよ、と応じると、"また、謙遜して。今年の東北は違うね、いいチーム作ったよね"」

 さて、決勝の先発はどうするか。ダルビッシュは、準決勝こそ登板させなかったが、決勝で先発すれば、49球を投げた準々決勝から中2日だ。通常のコンディションなら問題はないが、なにぶん右足の炎症は、ドクターストップに近い。若生監督は、

「有はつねづね、自分の状態を正直に申告してくるから、もしかしたら決勝は"無理です"といってくるかもしれないと思っていました。だけど、決勝の前の夜に頭を悩ませていると、有のほうから"行きます"といってきたんだよね」

痛みはあったはずなのに先発志願

 表面上は冷静に受け止めたが、若生監督、内心では舌を巻いていたという。

「だって、ヒザと腰が炎症を起こしかけているんですよ。大会中だから、治療といっても気休め程度で、状態は決して万全じゃないはず。決勝という大舞台で、しかも下級生で、重大な責任を負いたくなければ、体調を口実に投げないという選択もあったはず。それが自ら先発志願とはね」

 実は準決勝で江の川(現石見智翠館・島根)に勝ったあと、ダルビッシュはその試合で好投した同じ2年の真壁賢守に、館内電話をかけたという。準決勝はナイスピッチング。明日はオレが投げるよ——という、先発宣言だ。かくして2003年8月23日13時01分、第85回全国高校野球選手権決勝のプレーボールだ。

 立ち上がりは、東北のペースだった。2回、常総の磯部洋輝を攻めて横田崇幸、片岡陽太郎、加藤政義(元DeNAほか)の3連続二塁打で2点。ダルビッシュも手負いながら、3回まで2安打無得点で抑えていた。だが4回の常総は、先頭打者がヒットで出ると、1死後、三番の坂克彦(元阪神ほか)が低めを左中間に運び、次打者の内野ゴロの間に1点、さらに吉原皓史がレフト線に運んで同点。そして、大崎大二朗の三塁打で逆転した。

 逆転されたあとも、毎回走者を置きながら踏ん張るダルビッシュだが、8回には自らの暴投に守備のミスも重なって1点。東北には、これが重くのしかかった。打線は、3回途中からリリーフした飯島秀章を打ちあぐみ、2回の2点だけで結局2対4。大旗はまたも、白河の関を越えることはなかった。

 東北に悔やまれるのは、4回の守りか。1死二、三塁で、サードの右に内野ゴロ。バックホーム体勢だった三塁手と遊撃手、どちらも処理できるが、本塁への送球を考えると、ショートが捕るべき打球だ。だが、夢中だったのか、サードの1年生・加藤が捕球。その体勢からは本塁には間に合わず、一塁でアウトをひとつ取るしかなかった。

「それと次の吉原君の同点打は、1ボール2ストライクと追い込んだあと、横から投げた変化球でしょ。あれは有の悪癖だったね。ピッチャーは、つねに同じ腕の振りから多彩な球種を投げ分ければ大きな武器になるけど、有はときには横から、ときにはスリークォーターから投げる。本人は、"打者の目先を変えるため"といってたけど、腕の位置が大いに球種のヒントになることと差し引けば、マイナスだよね。あの同点打は悔やみきれません。それにしても……勝てた試合だったなぁ」

 1点を追う7回裏、東北の攻撃だ。2死満塁で、四番・横田の痛烈なライナーがショートの右を襲った。抜けた、逆転だ! とだれもが思うような打球である。だが、いるはずのない二塁キャンバス寄りの位置に、ショートの坂がいる。逆転打のはずの打球は、そのグラブにすっぽりと収まった。

「なんであそこに野手がいるの? あれが木内マジック? 試合が終わったあと、ショートの坂君に聞いてみたんですよ。"なんで、あそこに守っていたの?""キャッチャーのサインを見て、飛んできそうな感じがしたんです"。すごい、私もそういうチームにしなければ、と思ったね。勉強することの多い準優勝だった。だけどうれしかったのは、有が人目をはばからずに大泣きしたこと。"悔しいです。2点を取ってもらって勝てる試合だったのに、自分のせいで負けた……"ってね」

 試合終了の挨拶でダルビッシュの隣に並んだキャプテンの片岡は、

「有があんなに泣いているので、びっくりしました。初めて見ましたよ。有には“あと2回チャンスがあるんだから、全国制覇しろよ。オマエらだったらできる、ありがとう”と声をかけました」

 と若生監督に報告したという。

 後日談。2005年にダルビッシュが渡米したシーズン前、当時九州国際大付の監督を務めていた若生さんは、「最低でも15は勝てるね」と予言した。そのシーズン、ダルビッシュはレンジャーズで16勝。若生さんは21年、世を去った。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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