【幕末こぼれ話】綾瀬はるかが演じた会津の女スナイパー・山本八重とは?
福島県会津若松市で会津まつりのメインイベント・会津藩公行列が昨日行われ、女優の綾瀬はるかさんが参加した。
綾瀬さんは、私が時代考証をつとめたNHK大河ドラマ「八重の桜」で主人公の八重を演じた縁で同イベントに参加するようになり、今回は3年ぶり7度目となる。
そんなにも深く会津と八重のことを思っていただき、私としても感激するばかりなのだが、山本八重とはいったいどのような女性であったのか。あらためて紹介してみたいと思う。
会津藩の砲術師範役の娘
山本八重は、会津藩の砲術師範役・山本権八の娘として生まれた。少女の頃から男子に負けない活発な娘で、重い米俵を軽々と肩まで上げ下げできることが自慢だった。
そんな男まさりの八重であったから、自然と家業の砲術のほうに興味を持つようになる。やがて男性の藩士も顔負けの射撃技術を習得し、藩内でも異色の存在となった。
当時の日本において、鉄砲や大砲を撃つことのできる女性など一人もいなかった。砲術師範の家に生まれた娘は日本各地にいただろうが、彼女らが銃砲を扱えるようになったという話は聞いたことがない。
ただ一人、八重だけが技術を伝授されて成長した希有な存在だったのである。
しかも八重の場合、その腕を実戦で発揮する機会がすぐにやってきた。徳川幕府が崩壊し、明治新政府との決戦――戊辰戦争が始まったのだ。
7連発のスペンサー銃
慶応4年(明治元年・1868)、八重24歳の年である。8月23日に新政府軍が会津城下に侵攻したため、藩内の女性たちは全員鶴ヶ城に入城し、安全を確保するようにとの指示が出た。
このとき八重は、母佐久、義姉うらとともに城に向かったが、その肩には一挺の銃をかついでいた。当時最先端といわれたアメリカ製の新式銃で、7発の銃弾が連発できるスペンサー銃である。
幕末には西洋から多くの高性能銃が輸入されたが、まだ連発銃というのはなく、一発撃つごとに弾丸を込めなければならなかった。そんななかで、スペンサー銃は7発を一気に弾倉に込め、レバーと撃鉄の操作によって連発できるという驚くべき兵器だった。
ただ会津藩兵にこの銃が配備されていたわけではなく、藩内には八重のほかには一挺もなかった。砲術師範役の家という境遇がもたらした、奇跡の一挺だったのである。
もっともスペンサー銃が藩に配備されていないということは、専用の銃弾も備えがないということを意味していた。そのあたりを八重自身ものちにこう回想している。
「まるで弁慶の七つ道具を負うたように、腰には弾を百発、家から持って出ました。百発撃ってしまうまで命があったらよいと思いまして、百発まで持って参りました」(「新島八重子刀自懐古談」)
百発という限られた弾数のなかで、自分のできることを精一杯やろう。もし弾が尽きたらそのときは仕方ないと、八重は心に決めて出陣したのだった。
入城後の八重は、夜襲部隊に加わり城外に出、スペンサー銃を駆使して敵を狙撃した。一挺の銃から7発の弾丸が連発されるのを見て、敵兵は驚愕したことだろう。ましてその狙撃手が女性だったと知れば、敵は会津藩の底知れぬ実力に恐怖したに違いない。
武運つたなく鶴ヶ城は落城し、会津藩は降伏することになるが、八重の活躍は悲惨な会津戦争のなかでの痛快な逸話として伝えられているのである。