「加賀百万石」の祖の前田利家は、隠し金山を発見していたのか
政治の世界では政治資金の裏金などの問題を解決すべく、議論が続けられている。「加賀百万石」の祖の前田利家は、藩の財政を豊かにすべく、隠し金山を発見していたといわれている。その点について、詳しく解説することにしよう。
戦国時代の我が国は、シルバーラッシュ、ゴールドラッシュで湧いていた。石見銀山はその代表格で、産出された銀は国内だけでなく、海外にも広く輸出された。それゆえ、多くの戦国大名は財政を豊かにするため、銀山や金山の開発に余念がなかったのである。
豊臣秀吉が織田信長の後継者として天下人に名乗りを上げると、全国各地の主要な鉱山を支配下に収め、金や銀を政権の財源としたのは当然のことだった。
天正11年(1583)、秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利し、北庄城で滅亡に追い込んだ。戦後、秀吉は利家に能登と北加賀を与えた。その2年前、利家は信長から能登を与えられていたので、加増されたことになる。利家は、財政を豊かにすることに余念がなかった。
天正12年(1584)、前田家領内の宝達山(石川県羽咋郡宝達志水町)で金の鉱脈が発見された。宝達山は能登半島における最高峰の山で、金銀のほか、薬草なども採集することができた。
山から流れる川では、昔から砂金を採取していたので、鉱山の開発が行われることになり、金の鉱脈が見つかったといわれている。実際には隠し金山というよりも、それ以前から知られていたのである。
宝達山では、最盛期に大判で3500枚相当の金が採掘されたという。しかし、鉱脈は徐々に枯れていき、12ヵ所もあった坑道が崩れたこともあり、やがて廃坑になったのである。現在、坑道といわれる横穴は、いくつか確認することができる。
前田家が開発したほかの鉱山としては、天明8年(1788)に開発された金平鉱山(石川県小松市)が知られており、金・銀・銅・鉛の鉱石が採掘されたという。この鉱山に関しては『金平鉱山図絵巻』が残っているので、当時の様子を探ることができる。
なお、宝達山の閉山後、鉱夫は仕事がなくなったので、転職を余儀なくされた。鉱夫は前田領国の用水路や堤防の工事に携わることになり、宝達川の堤防工事や辰巳用水(石川県金沢市)の掘削に従事したといわれている。彼ら鉱夫は出身地にちなんで、宝達(宝達者)と称されたという。