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「やっぱ無理す」死刑台へのボタンを二度押した寝屋川事件・山田被告「控訴取り下げ」の真相

篠田博之月刊『創』編集長
「刑務官を呪いながら処刑場へ」山田被告の手紙(筆者撮影)

 ※この記事のタイトルを5月21日に変えました。現状で内容は同じです。

 コロナ禍は司法現場をも襲っている。大阪拘置所で刑務官が感染、東京拘置所では収容者が感染と脅威に見舞われ、一般面会は中止されたままだ。もともと刑事施設は医療態勢が貧弱だから、集団感染が起こればひとたまりもない。情報も閉ざされているのでほとんど報道されていないが、深刻な状況になっている怖れがある。

 裁判も公判や判決の延期が続いている。司法現場がこれほど混乱するというのは、国のあり方にも関わる重大事態だ。

控訴取り下げの受理が2カ月近く宙に浮いた異例の事態

 その中で異例の事態が続いているのが、寝屋川事件の山田浩二被告の「二度目の控訴取り下げ」問題だ。寝屋川事件は2015年に二人の男女中学生が連れ去られ殺害された事件で、山田浩二被告に1審で死刑判決が出されている。

 その控訴審が始まる前に山田被告が控訴取り下げをした後に、「取り下げ無効」申し立て。異例の展開となって、死刑判決の出された裁判の行方が先行き不明になっている。 

 山田被告の「控訴取り下げ」の経緯については何度も書いてきたのでそれをご覧いただきたい。直近だと下記だ。

寝屋川中学生殺害事件・山田浩二被告「再び控訴取り下げ」の背景事情

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20200331-00170737/

 ここで指摘した2020年3月24日になされた「二度目の控訴取り下げ」手続きが、実は正式に受理もされないままコロナ禍の影響で、もう2カ月近く宙に浮いたままだ。まさに異例の事態だが、5月3日に最高裁長官が「裁判の正常化を進める」旨の見解を表明しているから、恐らく間もなく動き出すと思う。

宙に浮いた二度目の控訴取り下げ 

 そこで、この「二度目の控訴取り下げ」の真相を明らかにしておきたい。本当は4月初めにも大阪高裁のなんらかの判断が示されると思っていたから、少し待って公表するつもりだったが、結局今になってしまった。

 私は山田被告からの手紙を3月28日に受け取り、急遽30日に大阪拘置所で接見したのだが、その時点で控訴取り下げは大阪高裁に受理されていなかった。微妙な状況なので経緯の詳細を明らかにするのはちょっと待ってほしいという弁護人の意向もあって、山田被告とも話し合い、詳しい経緯を当面伏せることにした。

 実は私が接見した30日に、控訴取り下げについてキャッチした朝日新聞記者が接見を申し入れていたのだが、私の接見があったために山田被告がそれを拒否。翌日、控訴取り下げ手続きがなされたという報道はなされ、他紙も後追いしたのだが、詳しい事情は明らかにされなかった。私にも取材があったのだが、詳細は今話せないと申し上げた。

一回目の取り下げの攻防の最中に二度目という異常事態

 なぜ裁判所が取り下げを受理するのを保留したかというと、それまで第1回目の控訴取り下げをめぐる攻防が複雑な過程をたどっていたからだ。山田被告は控訴取り下げで死刑が確定したのだが、「取り下げ無効申し立て」が2019年12月17日に高裁で認められ、死刑確定者から再び被告の処遇に戻るという異例の事態となった。

 その大阪高裁第6刑事部の決定に対して、検察が異議申し立てをしていたのだが、2020年3月17日に大阪高裁第1刑事部が原決定を覆して「差し戻し」を決定。それに対して23日に弁護側が最高裁に特別抗告。緊迫した攻防戦が展開されていた。

 実はややこしいのだが、昨年12月の決定に対して検察は特別抗告も行っていたのだが、それについては最高裁が棄却。山田被告の申し立てが認められていた。

 そうした検察と弁護側の激しい攻防がこの3月に展開されていたのだが、まさにその真っ最中に当の山田被告が「二度目の控訴取り下げ」をするという仰天の事態が起きたのだった。

 そしてその直後に山田被告は弁護士の説得を受けて再び「控訴取り下げ無効」を高裁に申し出た。つまり1回目の控訴取り下げをめぐる争いが続いている最中に二度目の取り下げがなされ、それについても無効申し立てがなされるという、普通ではありえない展開になったわけだ。

 裁判所もさすがに面食らったようで、どういう事情なのか確認すべく弁護人に話を聞くなどしたため、判断を保留したのだった。その直後にコロナ禍で司法現場が混乱に陥ったという、まさに予期せぬ事態の連続で、いまだに「二度目の控訴取り下げ」は保留されたままとなっていた。

 控訴取り下げというのはこの場合、山田被告の死刑が確定することを意味する。だから、取り下げとそれに対する無効申し立てをどう処理するかは、死刑に関わる重たい判断だ。高裁も慎重に判断しようとしているのだろう。

相模原事件被告の控訴取り下げめぐり接見した当日、大阪へ

 実は結論が1カ月以上伸びている間に、いろいろな経緯があった。ちょうど「二度目の控訴取り下げ」の行われた前後、山田被告と私は頻繁に手紙のやりとりをしており、その手紙の内容の照会も受けた。私もそういう事情を知って、当時の手紙を再度詳しく読み返して、驚くべき事情もわかった。今思うと、山田被告が控訴取り下げを決意する3月19日時点で私が接見するなど行動を起こしていれば、取り下げに至らなかった可能性もあるのだが、実はその頃、相模原障害者殺傷事件の裁判が佳境に達しており、私は連日横浜地裁に通う日々で身動きが取れない状況だった。

 控訴を再び取り下げたという手紙を受け取って仰天して大阪拘置所に向かったのが3月30日だが、実はその日は、相模原事件の植松聖元被告が控訴取り下げを行った当日だった。朝一で横浜拘置支所にて植松元被告に接見して控訴取り下げをやめるよう説得し、その足で大阪拘置所へ向かって控訴を取り下げてしまった山田被告に接見するという異様な一日だった。

 大阪拘置所の面会室にやってきた山田被告は、まだ興奮さめやらぬ雰囲気で、取り下げの原因となった拘置所のひどい仕打ちを早口で訴えた。短い面会時間でいろいろなことを話さねばならなかったため、双方とも熱が入り、途中でマスクをはずして、早口で話した。事情を把握した私は一度帰京し、再び4月初めに接見に行こうとしていた。ところが、そうするうちにコロナ感染が広がり、拘置所が一般面会禁止になってしまったのだった。

 3月28日に山田被告から届いた手紙で、彼がどういう事情で「二度目の控訴取り下げ」を行ったかは把握していた。彼はもうこれで自分が再び死刑確定者になることをいったんは覚悟したようで、顛末を書いた手記を月刊『創』(つくる)に投稿しようと考えたのだった。

 ただ後でいろいろなことがわかって私がちょっと愕然としたのは、その前の3月19日の手紙の欄外に山田被告は控訴取り下げの意向を書いていたのだった。4月7日発売の『創』前号に掲載する手記原稿とそれについての説明の手紙だったのだが、その手紙を3月19日に発信しようとして、彼は欄外にいささか壮絶なメモを書き込んでいた。

「刑務官を呪いながら処刑場へ逝きます」

 この記事の冒頭に掲げた写真がまさにその書き込み部分だ。

 《やっぱ大拘刑務官の嫌がらせに耐えられそうにありません。近日中に控訴取り下げて嫌がらせから解放されます。刑務官のことを呪いながら処刑場へ連行されて逝きます。さよなら》

 「行きます」でなく「逝きます」と書いていたから、死刑を覚悟したということなのだろう。

 そして手紙の末尾の余白には「2020.3.18水曜の筆」と結びの記述がなされたその下に青いボールペンでこう書かれていた。

《3月19日「木」朝筆。発信前に書く。やっぱ無理す。新棟6階主任担当と書信係許せない。身辺整理終了次第控訴取り下げる。それが命をかけた大阪拘置所への復讐。ごめんなさい。一晩寝ずに考えた結果です。理由もない手紙のやり取りの制限嫌がらせイジメに耐えられません。》

19日に決意し、24日に控訴取り下げ

 ややこしいのだが、その3月18日に書かれた手紙の本文の方には、刑務官の嫌がらせに不安定な精神状態が続いているが何とか頑張ると書いてあったのだ。でも、一晩悶々と考え、実際にその手紙を発信する19日には「やっぱ無理す」となって、欄外にそれを書き加えたらしい。

 今思うと、その手紙を受け取ってすぐに私が行動を起こしていれば控訴取り下げは阻止できたのだろう。でも、前述した相模原事件で忙しかったほかに、その19日の書き込みが赤線で上から消されていたという事情もあった。拘置所が消去したのか、本人が消したのかわからない。

 山田被告の手紙はいつも小さな字でびっしりと書かれているので私は拡大コピーをとって読むのだが、赤い線はコピーで黒く写るため、私はその2カ所の追記メッセージを見落としてしまったらしい。取り下げがなされてからその事情を調べるための照会を受けて改めて手紙を読み返して見つけたのだった。

 山田被告は19日に「やっぱ無理す」と控訴取り下げを決めた後、まだ迷っていたようで実際に取り下げ手続きをしたのは24日だった。もう死刑を覚悟して、最後の思いを25日付の手紙に書いてきたのだった。

 それを山田被告は26日午後に発信、私の手元には3月28日に届いた。手紙に書かれた手記を、私は30日に接見した直後に公表しようと当初考えたが、控訴取り下げ自体が受理されるかどうか微妙な経過だったために、2~3日様子を見ることにした。それがコロナ禍で1カ月以上経ってしまったのだった。『創』前号が合併号で5月7日は発売がなかったこともあって、今回、このタイミングで全文を「ヤフーニュース雑誌」に公開することにした。下記にアクセスすれば読める。

https://news.yahoo.co.jp/articles/f8a0289dd79f134950319f910707a02e3f2ce506?page=1

獄中手記!寝屋川事件・山田浩二死刑囚「二度目の控訴取り下げ」の全経緯

控訴取り下げに至るどんな経緯があったのか

 さて山田被告はいったいなぜ二度目の控訴取り下げを行ったのか。3月19日から24日にかけていったい何があったのか。

 詳しくは手記全文を読んでほしいが、何せ長文なので簡単に経緯を言えば、山田被告の手紙の受発信について拘置所側が不審の念を抱いて3月19日に房内を捜索した。かなり乱暴なやり方だったようで精神的に追い詰められていた山田被告にはもう耐えがたいと思えたらしい。

 

 結局、疑われるようなものは見つからなかったのだが、拘置所側は自らの見込み違いと受けとめることなく、24日に調査を行うとさらに通告した。調査とは懲罰の前に行われる確認作業で、2019年に山田被告が控訴取り下げを行ったのとよく似たシチュエーションだ。そのままだと山田被告に処罰が行われる可能性もあったため、彼はもう耐えられないと判断、24日に控訴取り下げを決行したのだった。

 手記は控訴取り下げで死刑になることを覚悟したという記述で終わっている。ただ前述したように、実際には弁護人に諭され、この「二度目の取り下げ」についても山田被告は無効申し立てを行っている。

 いずれにせよ1回目の控訴取り下げに対する最高裁の決定が遠くない時期に行われるし、高裁としてもそういうタイミングで今回の取り下げをどう扱うべきか、慎重に考えたのだと思う。そこへコロナ問題があって、申し立てが受理されないまま2カ月近くの時間が過ぎようとしているわけだ。でもさすがにこのまま判断を延ばすわけにもいかないから、何らかの動きが出るのはもう間もなくだろう。

 2019年に控訴取り下げで一度死刑が確定した時、それを取り下げ無効申し立てで覆すのは困難だろう、というのが大方の見方だった。暮れにそれが認められたのも異例だが、今回の「二度目の控訴取り下げ」も相当異例と言えよう。

 相模原事件の植松死刑囚も弁護団が控訴したものを自らの手で取り下げるという結末だが、こんなふうに死刑判決に対して控訴取り下げが相次ぐという事態も考えてみれば異例と言えるだろう。一連の経緯はいったいどういう形で決着するのか。

相模原事件の控訴取り下げと問題は同じだ

 前述したように3月30日に控訴取り下げを行う2人の死刑事件被告に接見したのだが、この2つの事例についての私の思いは同じだ。

 裁判とは、被告人をどう裁くのかというだけでなく、事件を解明することによって同じような犯罪が起こらないようにするという、大事な使命があるはずだ。相模原事件も裁判で本質的な問題が解明されないまま、刑事責任能力ありと判定された植松聖被告に死刑が宣告された。

 寝屋川事件も、山田被告が取り調べに対して黙秘を貫いたこともあって、1審の裁判では十分な真相解明ができていない。彼がなぜ2人の子どもを連れ去り、殺害してしまったのか、1審判決の中にも動機不明といった文言が書かれている。

同じ3月に横浜地裁で相模原事件の裁判が(筆者撮影)
同じ3月に横浜地裁で相模原事件の裁判が(筆者撮影)

 

 そんなふうに真相究明もなされず、事件の本質的な問題が掘り下げられないまま、被告人が極刑になることで幕引きという、こういう裁判のあり方で本当によいのだろうか。被告人が死刑を受け入れたということで事件を幕引きしてしまってよいのだろうか。

 私が関わった死刑事件では、2004年に起きた奈良女児殺害事件も、2008年に起きた土浦無差別殺傷事件も、被告が自ら控訴を取り下げ、死刑判決を確定させた。奈良女児殺害事件も私は毎回の公判に奈良まで足を運んだが、小林薫死刑囚は、今の社会に絶望して自ら死刑を望むと裁判中から主張し、公判でも積極的に事実を争おうとしなかった。

真相解明がなされないまま「死刑で幕引き」でよいのか

 私が長く関わった埼玉連続殺害事件が昭和から平成に変わる年に起きたというのは象徴的で、この30年ほど、動機がわかりにくく、精神鑑定が裁判で争点になる事件が目につくようになった。これは社会の複雑化によって犯罪が複雑化したことの現れだと思うのだが、今のこの社会は、そして司法のシステムは、そういう変化に十分対応できないでいるように思えてならない。相模原事件にしても、あの戦慄すべき犯罪に、この社会はいったいどれほど対応し得たのだろうか。被告を死刑にして、事件が解決したと言えるのだろうか。

 その思いは、今も深まるばかりだ。山田被告はもしかすると近々、再び死刑確定者の処遇に戻ってしまうかもしれない。そうなれば接見禁止になり、情報もほとんど外へ出てこなくなる。だから私は、できればここで、裁判とは何なのかを、この一連のややこしい事態を通じて多くの人に考えてほしいと思う。

 なお、相模原事件の植松元被告(既に死刑確定)との3月30日の接見については、以前記事を書いているので、興味ある方は参照してほしい。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20200331-00170611/

相模原事件の植松聖被告は控訴取り下げ直前に「安楽死する人と同じ気持ちだ」と語った

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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