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連合赤軍事件の永田洋子さんらの手紙が約50年ぶりに公開!『連合赤軍 遺族への手紙』

篠田博之月刊『創』編集長
永田洋子元死刑囚の自筆の手紙(筆者撮影)

「遠山さんは苦しいから腕を切ってと言っていました」

 冒頭に掲げた写真は、1972年の連合赤軍事件で知られる永田洋子元死刑囚の自筆の手紙。約50年間、未公開だったものだ。その永田洋子さんの母親の手紙もある。とても貴重なこれらの手紙は、連合赤軍事件でリンチ殺害された遠山美枝子さんの母親・幸子さんがやりとりしたもので、美枝子さんの家族が保管していたものだ。

 それら多数の貴重な手紙の内容は、2024年9月にインパクト出版会から出された『連合赤軍 遺族への手紙』という本に収録されている。遠山幸子さんは、当時、裁判傍聴にも通い、連合赤軍の森恒夫さんや永田洋子さんらに怒りの手紙を発信。私の編集する月刊『創』(つくる)に手記を連載している吉野雅邦さんには直接会いに行った。永田洋子さんの母親にも手紙を書いていたことがこの本を読むとわかる。

永田洋子さんの母親の手紙(筆者撮影)
永田洋子さんの母親の手紙(筆者撮影)

 

 その母の執念に対して連合赤軍幹部らは次々と謝罪の手紙を送っていた。写真を掲げた1973年5月28日付の永田洋子さんの手紙にはこう書かれていた。

《本当にごめんなさい。遺族の方に、お詫びをこれからしてゆこうと思っています。

 遺族の方に、私がお詫びをどのようにできるかわかりませんが、してゆこうと思います。

 私が遠山さんを、他の十三名と同じように殺したのです。遠山さんは、あの粛清に疑問を示した人であり、他の同志を殴れとの命令に対し「私にはできない」といった人です。

 遠山さんが正しかったのです。》

《遠山さんは苦しいから腕を切ってといっていましたし、よく「お母さん」といっていました。

「お母さん、みてて、美枝子頑張るから」「お母さん今にしあわせにしてあげるから」といっていました。この言葉をさえ、私たちは攻撃したのです。》

遠山幸子さんの手紙(筆者撮影)
遠山幸子さんの手紙(筆者撮影)

今年100歳になった母親・遠山幸子さん

 こうした文面を読むと、連合赤軍の同志への凄惨なリンチ殺害事件を思い返して、改めて重たい気持ちになる。

 元連合赤軍の吉野さんも、私に送ってきた手紙でこの本について書いていた。

《これは凄い本です。私の知る「連合赤軍」関連書籍の中では、最も刺激的で、重みと深みをもって心に迫ってきます。生涯、座右に置かせてもらうことになるでしょう。》

《遠山幸子様が大変な熱意を込めて、真相に迫ろうとされた信じられないような多大な御尽力を思いますと、この50余年間の自分の至らなさ、不誠実さが思い返され、慚愧の極みです。》

 ちなみに殺害された遠山美枝子さんは、『創』に連載をしている元・日本赤軍の重信房子さんともかつて明大で一緒に赤軍派として活動し、親友だった。重信さんから遠山幸子さんにあてた1972年のベイルート発の手紙も収録されている。

 手紙の現物は、現在、この本を編集した江刺昭子さんが保管しており、ここに掲げた写真はその一部だ。

遠山幸子さんが自筆で書き写した冊子(筆者撮影)
遠山幸子さんが自筆で書き写した冊子(筆者撮影)

 

 実はたくさんの手紙を、遠山幸子さんは自筆で書き写した冊子を残している。手書きで書き写したのは、娘を殺された無念を心に刻み整理する営みだったと思われる。

 その執念の母親、遠山幸子さんは、いまも健在だが、2024年3月に100歳を迎え、特別養護老人ホームに入居している。今回の本は「遠山幸子・江刺昭子編」とされ、江刺さんは出版前に幸子さんを訪ねているが、手紙をめぐる詳細な経緯を幸子さんから聞くことは難しい状態だったという。

 今回の出版の経緯について、江刺さんのご自宅を訪ね、話を聞いた。

朝日新聞連載の「『連合赤軍』指輪物語」

 なおこのインタビューにも出てくる、2024年3月25日から朝日新聞に連載された「『連合赤軍』指輪物語」についても説明しておこう。『週刊文春』記者から朝日新聞社に転職し、『週刊朝日』や「AERAdot.」の編集長を歴任した森下香枝さんが取材執筆したものだ。

 遠山美枝子さんがはめていた指輪が2015年に、群馬県警から遺族のもとに返された。その指輪は、母親の幸子さんが贈ったものだったが、1972年当時、永田洋子さんらによって「革命戦士としての自覚が足りない」などと非難され、粛清に至るきっかけになったものだった。その指輪が43年ぶりに遺族のもとに戻ってきたという話から、連合赤軍事件に迫ろうとしたのが「『連合赤軍』指輪物語」だった。

 以下、江刺さんのインタビューを紹介しよう。

手紙の山を前にして語る江刺昭子さん(筆者撮影)
手紙の山を前にして語る江刺昭子さん(筆者撮影)

遠山美枝子さんの3月13日の墓参りに参加

――今回、『連合赤軍 遺族への手紙』を出版することになった経緯をお話いただけますか。

江刺 きっかけは、私が2022年に上梓した『私だったかもしれない ある赤軍派女性兵士の25年』という本でした。連合赤軍事件で命を落とした遠山美枝子さんの評伝です。今回の本はその美枝子さんの母親、遠山幸子さんが連合赤軍関係者とやりとりした手紙を収録したもので、遺族から提供されたものです。

 私がなぜ遠山美枝子さんの評伝を書くことになったかというと、私は神奈川で地域の女性史にずっと関わってきて、『時代を拓いた女たち』という神奈川にゆかりの女性のミニ評伝集を神奈川新聞社から3冊出しています。実は連合赤軍に関わった女性たちは神奈川の人が多いんですよ。大槻節子さんも金子みちよさんも横浜国大出身ですし、永田洋子さんも現在私が住んでいる場所の隣町の綱島で育っているわけです。

 だから『時代を拓いた女たち』に、連合赤軍の女性を入れようかなと考えたのです。気が付いたら、遠山美枝子さんが育ったのが、私が以前に30年弱住んでいた家の近くだったということがわかって、彼女について短い記事を書きました。その時、私の友人の女性史研究家に「遠山さんについて書きたいのだけれど伝手がなくて」と話をしたら、「私、知ってるわよ」というのです。明大で一緒だったというわけです。

 彼女も西村という旧姓で『私だったかもしれない』に登場しているのですが、その彼女から、明大で遠山さんや重信房子さんらと共闘していた蔵本健さんを紹介してもらい、蔵本さんから遠山さんの元夫、元赤軍派の最高幹部だった高原浩之さんを紹介してもらったのです。

 それが2017年11月でした。その後、翌年の3月13日に遠山さんのお墓参りに来てもいいよということで横浜市中区の相沢墓地に私も行きました。集まったのは6人でしたが、それを機にいろんな人を紹介してもらい、取材していったのです。ちなみに遠山美枝子さんが殺害されたのは1972年1月7日ですが、遺族は、連合赤軍メンバーの供述によって遺体が発見された3月13日を命日にしています。

 その後私は、重信さんの支援のような形で始まったという明大土曜会にも行くようになり、いろいろな人に会って、『私だったかもしれない』を書いたわけです。

江刺さんの著書(筆者撮影)
江刺さんの著書(筆者撮影)

天井裏に保管されていた手紙などの資料

江刺 この本は2022年4月、重信さんが出所する直前に出たのですが、その年の9月に、高原さんが、今回の『連合赤軍 遺族への手紙』のもとになった資料を提供してくれました。以前、住んでいた家の天井裏に保存していたのだそうです。遠山さんの本が出たことで、高原さんは、これはもう終活だという気持ちになり、その資料を私に預けるというのです。

 確かに貴重な資料なので、私も高齢だし、いずれしかるべきところに寄贈しようと思っているのですが、高原さんは、運動関係は嫌だというのです。例えば「連合赤軍事件の全体像を残す会」が証言活動をしていますが、そういう運動関係は嫌だというのです。だから今、私が考えているのは、例えば千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館。以前、全共闘についての企画展示がありましたが、なかなか見ごたえのある展示でした。あるいは、私は国立女性教育会館(NWEC)の女性アーカイブセンターの資料選定委員を8年やっていたので、そこもどうだろうかと考えています。

 高原さんは「行き場所に困ったら返してくれ。自分のお棺の中に入れていくから」と言うのですが、今回、『連合赤軍 遺族への手紙』にも収録しなかった手紙の原文もあるし、私はやっぱりしかるべきところに預けるのがいいかなと思っています。

 ただ私はそれらの手紙を公開してよいものか、少し迷っていて、預かってからしばらく、そのままにしていたのですね。そしたら昨年、朝日新聞の森下香枝さんが遠山さんのことで取材に動き、今年に入って「指輪物語」と題した連載で手紙の一部を引用したのです。私も森下さんの取材を受けましたが、高原さんがその資料を渡したのですね。それなら公開してもよいのかなと思って、その経緯を『私だったかもしれない』を出版したインパクト出版会の深田卓さんに話したら、そうであれば主な手紙とその経緯を本にしようということで、今回の出版に至ったのです。

 手紙がこういう形で本になったことを高原さんも喜んでいて、これで本当に一区切りだということで、この10月には、遠山さんたちを供養した群馬県のお寺を訪ねるつもりだと言っています。

100歳を超えた遠山幸子さんの近況

――遠山幸子さんに出版前にお会いしたそうですが、本の編集そのものには、幸子さんはノータッチなわけですね。お会いした時、どういう様子でしたか。

江刺 この本には彼女自身はノータッチです。

 私が会いに行った時、一緒にいた美枝子さんのお姉さんが「お母さん、美枝子のことを書いてくださる江刺さんよ」と、大きな声で言ってくれました。ただ、それがどこまでわかっているのか、ちょっとわかりませんでした。

 言葉もほとんど出ない状態でしたが、ただ帰る時には「気をつけてお帰りください」とおっしゃったから、大まかにはわかっておられるようです。

 幸子さんはこれまで取材にも応じてきませんでした。ただ朝日新聞の森下さんの連載を読むと、森下さんもお会いにはなったようですね。

 取材に応じてこなかったということでは、美枝子さんの夫の高原さんも同じです。高原さんは1982年に出所して83年に、美枝子さんの双子のお姉さんと結婚するのですが、お子さんが2人いるわけです。その子たちに連合赤軍事件の影響を及ぼすことをものすごく恐れているみたいで、だから表に出ないようにしてきたんですね。

 2017年11月に赤軍派議長だった塩見孝也さんが亡くなって、翌年3月4日に「塩見孝也お別れ会」が開かれた時に高原さんも出席して挨拶した内容が、リベラシオン社のサイトに残されています。また2021年5月に「連合赤軍事件50年に考える」という文書を関係者に配布して、「連合赤軍事件の最大の原因は赤軍派路線にある。それは誤っていた」という意味のことを書いています。

――幸子さんは娘が遺体で発見されるまで必死で行方を探し、その後も娘の死の真相を解明するために東奔西走するわけですね。その執念は凄いもので、本当は幸子さん自身の口からそのあたりの詳細を聞けると良かったですね。

江刺 お母さんがあれだけ長い時間をかけて被告に手紙を書いたり、被告の家族に電話をしたり、公判の傍聴に行ったり、面会したり、他の遺族との交流もずいぶんやっているわけです。さらにその手紙を冊子に書き写しているわけですね。そのあたりについて私もぜひ細かく知りたいとは思ったのですが、ご本人はさきほど言ったような状態で、美枝子さんのお姉さんに聞いても、よくわからないというのですね。

 お母さんは1971年12月、娘の美枝子さんの行方がわからなくなって、必死で探し歩いたようです。その時は結局手がかりがつかめなくて、翌年3月になって亡くなっていたことがわかるわけですね。それからしばらくはショックで寝込んでいたと美枝子さんのお姉さんは言っていました。

 お母さんは勤めていた会社もしばらく休んでたらしいんですけど、会社から出てくるようにと言われて出て行くようになったそうです。でもその後も公判を傍聴したり、連合赤軍関係者に手紙を書いたり、その娘への思い、情熱はもの凄い。そのことも詳しく知りたいと思いましたが、できませんでした。

娘の美枝子さんとの母娘の強い絆

――幸子さんと娘の美枝子さんの強い絆は、いつからだったのでしょうか。

江刺 重信さんが『抵抗と絶望の狭間』(2021年刊)に「遠山さんへの手紙」を寄稿していますが、その中で7・6事件に触れて「私が関西に行っている間、あなたは、明大という自分の大学に居てブントの反対派に拉致されたり(その時は、私たちをいつも励ましてくれたあなたのお母さんが大学に乗り込んであなたを連れ戻しましたね)しながら活動していました」と書いています。

 私はこれを読んだ時、まさか活動家でもない普通の中年の女性が内ゲバで騒然としている大学に乗り込むということが信じられなかったのですが、今回の本を編んだあとは、このお母さんだったら、そういうこともあっただろうなと思い直しました。また、お母さんが美枝子さんや重信さんたちの活動に単なる理解という以上に、応援していたことがわかります。だからこそ、美枝子さんの死後、その後悔もあって、あれほどのエネルギーをもって事実解明に奔走したのだろうと思います。

 美枝子さんは、お母さんが苦労してるからと言って、公立の緑ケ丘高校の文系進学クラスだったのに進学せず就職します。お母さんが勤めていたキリンビールに就職するんですが、その後、明大の2部法学部に行きます。彼女の姉と妹は、私立高校に行って系列大学に進学するわけですが、美枝子さんは、お母さんを楽にしてあげる、幸せにしてあげるからとよく言っていたようです。それがどうやら彼女が明大2部に入学後、革命運動に向かった動機だったみたいですね。だからお母さんは、自分が苦労してる姿を見せたから美枝子は革命運動に向かってしまった、娘を死なせたのは自分のせいだ、と考えたようなのです。

 興味深いのは、幸子さんは公判に行って知り合ったのか、他の遺族とも手紙のやりとりをしているんですね。

――それらの手紙の現物を残すだけでなく、自分の手で冊子に書き写していたのですね。

江刺 記録として残すというより、自分の気持ちを整理し、供養するためだったのではないでしょうか。記録として残すというのであれば、手紙も時系列にそって書き写すでしょう。ところが実際は、順番がバラバラなんですよね。当然、あったはずの手紙を写していないし、残ってもいません。

 冊子は73年の手紙で終わってるんですが、その後に吉野雅邦さんに会いに行っているんです。もしかすると吉野さん以外の人にも会いに行っているのかもしれない。そのあたりについては、わからないことが多すぎるんです。

 例えばお母さんは永田洋子さんの母親や中村愛子さんの父親に電話をしたことが、2人の親からの手紙でわかります。親の責任も問いたかったのか、電話をもらった方も困惑したでしょうね。殺された行方正時さんや尾崎充男さんの遺族と手紙のやり取りをしていますが、他の遺族にも接触したのか、それもよくわかりません。残っている手紙から判断するしかないわけです。

 私が今回、感じたのは、お母さんの強さに打たれたこととともに、美枝子さんから獄中の高原さん宛の手紙などがたくさん残っていたことから、美枝子さんが自ら選んで赤軍派に入ったこと、「山」に行く選択をしたこと、高原さんに対して自立宣言をしたことから、彼女が活動の中で自信をつけ、信念をもって「革命」を実現しようとしたことがわかりました。その方向性はともかく、考える力も行動力もある女性だとわかって、美枝子さんはすばらしい人だと改めて思いましたね。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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