渡辺智男から3三振の清原が悔し涙。初出場優勝・伊野商/センバツ・旋風の記憶[1985年]
現在取材中のセンバツ。甲子園で、西武スカウトの渡辺智男さんを見かけた。で、思い出したことがある。
「いまセンバツやってまっしゃろ?」
1985年のセンバツでは、初出場の伊野商(高知)が快進撃を続けていた。東海大浦安(千葉)、鹿児島商工(現樟南)に勝ち、準々決勝では、同じ四国の西条(愛媛)に7対0。準決勝に進んだが、エース・渡辺は、疲れでどうにも体が重い。山中直人監督のツテで兵庫・西宮市内の治療院に行ってマッサージを受け、肩やヒジの張りが多少は取れた。そこから宿舎に帰るタクシーの車中。こちらの正体を知らず、運転手さんが話しかけてきたのに山中監督がノッた。
「準決勝は、伊野商とPL。どっちが勝つと思いますか?」
「う〜ん……まあ、伊野商には悪いけど、そりゃあ大差でPLやろうねぇ」
PL学園。桑田真澄(元巨人)・清原和博(元西武ほか)のKKコンビを中心に83年夏に優勝し、84年はセンバツ、夏と準優勝。高校野球史上最強ともいえるチームだ。KKが3年になったこの年のセンバツでは、断然の優勝候補。伊野商との準決勝は、横綱対新入幕のようなもので、運転手さんの予想も無理はない。渡辺さんに聞いた、当時の話。
「高知から甲子園に出場したら、さすがに1勝はしたかったですね」
それが、ベスト4まできている。
大会では日程の関係上、PLと同じ日に試合をすることが多かった。準々決勝も、ベンチ裏通路のテレビで見た。「強え。もしオレたちが勝ったとしても、次はこのPLとやるのか……」。なにしろ、メンバーがすごい。KKのほかにも松山秀明(元オリックス)、内匠政博(元近鉄)、今久留主成幸(元横浜ほか)と、のちにプロ入りする選手がずらりだ。案の定PLは、桑田が天理(奈良)を完封して4季連続の準決勝進出。冒頭のタクシー運転手との会話は、準々決勝の終わったその日である。
バットに当たりもせずに3三振
いざ、試合。伊野商は1回表、相手守備の乱れもあって2点を先制し、2回裏、渡辺は打席に清原を迎えた。大きいなぁとは思った。ここまでの3試合、11打数5安打1本塁打。自分も打たれるんだろうな。ただ、大きくドンとかまえる打者は、苦手ではない。それにしても、すごいヘッドスピードだ。当たったら、どこまで飛ぶんやろうなぁ……。
前夜、マッサージから帰ったあと。山中監督は観念したように、「PL対策……なにもないよ」というしかなかった。渡辺もいう。
「いつでも帰れるように、荷物をまとめていた(笑)」
だが、2回の清原との初対決で、フルカウントから空振り三振にとると、考えが変わった。「清原も、同じ高校生やったぞ」ベンチに戻るとナインにそういい、残りの打席も三振を狙いにいこうと思った。なにしろ、横綱と平幕である。負けることは怖くない、目一杯行って打たれたらしゃあない……。
打者としては、投手・桑田にそれほど強い印象はない。変化球の使い方と投球術はさすがだったが、スピードなら中山裕章(高知商・元横浜ほか)、コントロールなら山本誠(明徳義塾・元オリックス)と、高知ですごいピッチャーを見ているからだ。ただ5回裏、松山にホームランを打たれたときはイヤな感じがした。PL打線は、打ち始めると止まらないんじゃないか。だがすぐに6回表、七番の横山博行がレフトフェンス直撃の適時二塁打を放ち、終わってみれば、3対1。平幕が、横綱から金星を挙げることになる。
「泊まっていた宿舎が、前年夏に優勝した取手二(茨城)といっしょだったんです。決勝でPLに勝った取手二ですから、ゲンはよかったですよね」
清原の2打席目は、4回だった。走者を一人置いてボールスリーとするが、2球続けたまっすぐを見逃し、最後はまっすぐを空振り三振。第3打席は四球だったが、8回の第4打席は、初球カーブを空振り。2球目、まっすぐを空振り。そして3球勝負の146キロストレートを、清原は呆然と見逃した。めずらしく、バットを叩きつけて悔しさをあらわにする。3打数3三振、浮き上がるようなストレートに、バットがその下を通る。ファウルすら1球もないほど完璧に抑え込んだ。あまりの悔しさに清原は、試合終了後、富田林市のPLの室内練習場に戻り、悔し涙を流しながら夜中まで打撃練習を続けたという。
清原は翌年、プロ野球で31本塁打を放つ怪物だが、そのバットにかすらせもしなかったのだ。15球で3三振。その衝撃から比べれば翌日、帝京(東京)との決勝は付け足しだ。事実いまでも、「あのPLとの決勝戦、すごかったですね」と声をかけられる。実際は準決勝なのだが、それほど印象が鮮烈だったということだ。渡辺自身も、清原からの3三振があったから、のちにプロ入りできたと思っている。
帝京との決勝は、小雨のなかの3連投でなかなか調子に乗れなかったが6回、自身2本目のホームランなどで3点を先取してから目が覚めた。結局13三振を奪い、7安打完封。ただ渡辺が覚えているのは、4対0というスコアだけ。すごいことしたんやな……と実感したのは、高知へ帰る列車だ。
船で高松に渡り、土讃線で池田を過ぎ、高知県に入ったあたりから、通過駅のホームに人が増えてきた。近隣の住民たちが日の丸の小旗を振りながら「お帰り」「頑張ったね」と声をかけてくる。高知駅に着いたときには、おびただしい数の出迎えが待っていた。
3年の夏は、決勝で中山の高知商に敗れた。自分たちの出ない甲子園には、興味がない。海でも行こうか、免許を取りに行こうか……。それでも、唯一テレビで見た試合がある。準々決勝の、PL対高知商戦だ。中山が、あの打線をどこまで抑えるか……試合中盤。清原が放った特大の一発には、目を見張った。中山の150キロ近いストレートを、ものの見事に左中間中段まで運んだ。その飛距離は、高校野球最長ともいわれている。中山から6点を奪って勝利したPLが結局優勝しても、驚きもしなかった。
もし、伊野商が高知商との高知大会決勝を制して甲子園にコマを進め、さらに高知商と同じクジを引いていたとしたら……清原との再戦がありえたのではないか。だが、渡辺はサラリといなす。
「いやぁ、勝ち逃げだからいいんじゃないですか。あのときの3三振は、たまたま。もともと、目をつぶってとにかく思い切り投げるだけ、という感覚でしたから。全打席がストレートの四球という可能性もあれば、3球三振を取れる可能性もあった。次やったら、絶対勝てへんやろと思います」
伊野商を卒業後、愛媛の社会人チーム・NTT四国に入社し、88年には、ソウル五輪出場を手みやげにドラフト1位指名で西武入りした。すでにスターとなっていた清原は「別のチームに行かなくてよかった」と迎え、対戦しなくていいことを喜んだ。渡辺は「忘れられていなかったんや」と感激した。
忘れていたのは、冒頭のエピソードの続きだ。タクシーを降りるとき山中監督は、タクシー券に「伊野商」とサインをして運転手氏に手渡したという。受け取ったあとの表情を確認せず、車を降りてしまったことが残念だが。