ナショナリズムと民主主義:世界史からみた2014年(中)
戦後の摩擦
戦後の先進各国では民主主義がますます普及するなかで、いずれの政党も経済成長と福祉国家化を大前提とするようになり、これによって相互に差がなくなったため、1960年には米国の社会学者ダニエル・ベルが「イデオロギーの終焉」を宣言するに至りました。
その一方で、過剰なナショナリズムが衝突した第二次世界大戦への反動から、戦後の世界では全体的にナショナルなトーンが低調になりました。むしろ、この時期には「国家と国民の一体性」を強調するナショナリズムと、「人々の意志に基づく統治」を重視する民主主義の摩擦が大きくなったといえます。
日本の高度経済成長をはじめ、右肩上がりの成長を経験した先進国では、高度に管理化された産業社会が生まれただけでなく、議会制民主主義を構成する政党や利益団体(経営者団体、労働組合など)も高度に組織化されるに至りました。
複雑化した社会にあって、政治の専門化は避けられなかったことですが、他方で多くの人々からみて「自分たちの意見が政治を動かす」感覚は薄くならざるを得ず、むしろ「国家が自分たちを管理する」感覚ばかりが生まれやすくなったとしても、不思議ではありません。その一方で、ベトナム戦争やプラハの春といった大国による介入主義的な行動も表面化。このような背景のもと、1968年のパリ5月革命、米国におけるベトナム反戦運動、日本の大学紛争など、国家に対する若者の抵抗も噴出するようになりました。これらはいずれも、「人々の意志に基づく統治」」の観点から既存の権威やシステムを否定するもので、その統合体である国家は、どこであれ主な批判対象になったといえます。
ナショナリズムと民主主義の再接近
こうしてナショナリズムと民主主義の軋轢が生まれたわけですが、両者は1980年前後から、再び接近し始めました。この背景には、先進各国の間で、少なからず社会主義に影響を受けた政治運動の広がりに対する反動だけでなく、戦後一貫して実現していた右肩上がりの成長が、1970年代の二度の石油危機によって停滞し、これに対する失望と危機感が広がったことがありました。
この背景のもと、ナショナルな価値を強調する政権が各国で相次いで誕生したことは、ナショナリズムと民主主義の再接近を象徴しました。なかでも「新保守」と呼ばれたロナルド・レーガン米大統領(任1981-89)やマーガレット・サッチャー英首相(任1979-90)は、後者による国鉄民営化に象徴されるように、いずれも経済的には新自由主義者でしたが、前者の「古き善き米国」のスローガンに代表されるように、政治的にはナショナリストだったといえます。レーガンやサッチャーの登場は、戦後主流になっていた、ケインズ主義的な経済政策や福祉国家化に対するアンチテーゼでもありました。
ともあれ、レーガンとサッチャーは、それぞれの所属政党において決して主流にいたわけでないにも関わらず、国民の幅広い支持を集めた点でも共通します。既存の政党システムや利益団体をバイパスして世論を喚起する手法は、経済停滞や外敵(ソ連)に対する広範な危機感を募らせ、さらに既存の政治システムで声が反映されていないと感じる人々の疎外感にマッチしたといえます。
その一方で、1980年代は冒頭で取り上げた極右政党が台頭した時期でもあります。その代表であるフランスの愛国戦線は、1983年のドルー市議会選挙で、保守政党との連立で55.3パーセントを獲得。「100万人の失業者、100万人の移民」のスローガンのもと、「白人キリスト教徒の共和国」からの移民排斥を目指し、折からの社会主義政党の停滞と相まって、従来はこれらの支持基盤だった低所得層、すなわち移民と職が競合しやすい人々との間に支持を広げていったのです(畑山敏夫, 1997, 『フランス極右の新展開-ナショナル・ポピュリズムと新右翼』, 国際書院)。その後、2002年大統領選挙で党首ジャン=マリー・ルペンは、現職ジャック・シラクに次ぐ得票を集めるに至りました。
極右政党の台頭は、既存の議会制民主主義が少数の統治エリートや特定の利益団体によって握られているという広範な不満を背景に促された点で、レーガンなど既存政党のアウトサイダーの台頭と共通します。その意味で、1980年代以降のナショナリズムの再興は、議会、政党、利益団体などエリート層中心の既存の制度を超えた「人々の意志に基づく統治」と、これらの中間組織をバイパスした「国家との一体性」への欲求の高まりとともに発生したといえるでしょう。
冷戦終結後の東西ヨーロッパの温度差
1989年の冷戦終結は、第二次世界大戦後の世界史において、大きな分岐点となりました。社会主義陣営の崩壊により、それまでほぼ西側先進国に限られていた民主主義と市場経済が、世界規模で広がり始めたのです。この背景には、古来からの「勝者こそ正しい」という発想に基づき、事実上冷戦の勝者である当時の欧米諸国で生まれた、「社会主義システムに打ち勝った民主主義と市場経済こそ普遍的な価値をもつ」とする認識がありました。1992年に日系米国人の国際政治学者フランシス・フクヤマが著した『歴史の終わり』は、そのような認識を代表するものでした。
この時期、もともと各国の統治システムであった民主主義は、個別の国境を超えるグローバルな理念になった、少なくとも欧米諸国はそのように強調するようになったといえます。つまり、少なくとも西側先進国において、民主主義は総じてナショナルなトーンを再び薄めることになったのです。
しかし、1990年代に民主化が進んだ国では、必ずしもその限りではありませんでした。例えば東欧革命の火付け役となったポーランドでは、民主主義は反ロシア・ナショナリズムと連動して発達しました(川原 彰, 1993, 『東中欧の民主化の構造』, 有信堂)。つまり、民主的と言い難いロシアと距離を置き、欧米圏に接近するなかで、そのスタンダードである民主主義を積極的に受容することは、ポーランドをはじめとする東欧諸国ではごく自然に進みましたが、それはナショナリズムを背景としたものだったといえます。また、その際にはロシア正教会が中心のロシアとの対比から、カトリック教会が反ロシア・ナショナリズムのシンボルともなりました。
「自分たちを支配する他者」への拒絶からナショナリズムが鼓舞され、その延長線上に「自分たちを支配する他者」と対極にある欧米諸国やその民主主義に親近感をもつ構図は、同様にロシアと距離を置こうとするウクライナの親欧米派市民や、やはり民主的と言い難い大陸中国と自らを差別化するナショナリズムが民主主義の背景となった香港の「雨傘革命」にも共通するといえます。
その一方で、ナショナリズムを背景とする民主主義は、新たな支配関係も生むことにもなりました。例えば、かつてソ連の一部だったラトビアでは、人口の約27パーセントをロシア人が占めます。独立後、人口で過半数を占めるラトビア人はラトビア語を公用語に定め、非ラトビア人は国籍取得にラトビア語試験が課されるため、ロシア系の無国籍者も多数います。2012年、ロシア語を第二公用語にするかを問う国民投票は、人口規模をほぼ反映して、約75パーセントの反対が25パーセントの賛成を上回りました。多くのラトビア人に、かつて支配されたことに由来する反ロシア感情があることは確かですが、これは同時にナショナリズムを背景とする民主主義が文化的な違いを数の力で抑圧しがちなことを改めて示したといえるでしょう。
民主主義の強要に対する反発
一方、欧米諸国による民主主義の強要は、反欧米的な意味でのナショナリズムを鼓舞する場合もありました。
冷戦終結後の欧米諸国は、戦略性に基づいた援助を行っていた冷戦期から一転して、多くの開発途上国に民主化と人権保護を求めるようになりました。これに反した場合、その国は制裁の対象にすらなりました。1989年の天安門事件と、その後の中国に対する各国の援助停止は、その転機だったといえます。この背景のもと、特に援助への依存度が高い国ほど、相次いで民主化に転じたことは、不思議ではありません。例えばアフリカでは、複数政党制を導入していた国は、冷戦終結の1989年には8ヵ国に過ぎませんでしたが、1995年には35ヵ国にまで増加しました。
ただし、「普遍」の強制が「特殊」からの反動を招きやすいことは、「革命の理念」を掲げたナポレオンに占領されたドイツ、イタリア、スペインでナショナリズムが高まったことに象徴されます。民主主義や人権が普遍的な価値をもつとしても、「これが正しいもの、よいものだ」と外部から強制されれば、反発を招きやすくなることもまた確かです。多くの開発途上国にとって、民主主義に普遍的な価値を認めることで、どの国もそれを受け入れるべきと主張し、場合によっては各国の内政に干渉する欧米諸国のスタンスが、植民地時代の歴史を思い起こさせたとしても、不思議ではありません。
19世紀、列強は「文明化」のレトリックで植民地支配を正当化しました。要約すれば、「植民地支配は正しい行いである。なぜなら、アジアやアフリカの『野蛮』で『未開』な連中を『文明化』することが、われわれ文明人の責務であり、その支配のもとで彼らは初めて『文明化』できるのだから」。普遍的な価値を掲げ、それを「相手のため」と強要する宣教師のようなスタンスにおいて、19世紀に文明化を唱道した列強と、20世紀末から民主化を求めるに至った欧米諸国は、ほとんど同じといえます。同様の文脈で、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートは、他の選択肢があり得ない世界という意味で、現代世界が〈帝国〉化しているといいます(『〈帝国〉 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』, 2003, 以文社)。
欧米諸国が民主主義を「グローバルな価値観」と位置づけ、そこからの逸脱を「異端」と扱うようになったことは、そのように名指しされた側からの反発を招き、結果的にナショナリズムを鼓舞する要因になりました。
その際、欧米諸国に援助などで依存度の高い貧困国や、イスラームなど固い宗教的価値観が影響力をもつ地域よりむしろ、「欧米諸国の民主化圧力に拒絶反応を示しながらも、他にこれというイデオロギーを掲げることができず、なおかつ抵抗するだけの潜在的な力を備えた国」として、ロシアや中国でナショナリズムが高まったことは、偶然ではありません(イスラームをはじめとする宗教過激派の台頭は1970年代からのものですが、1990年代以降に特に広がったのは、ナショナルな結びつきではないものの、外来の理念やイデオロギーに対する反動という意味で、ほぼ同じといえます)。
ロシアの鬱屈
このうちロシアでは、1991年のソ連崩壊後、民主化と連動した市場経済化のなかで、欧米諸国から民間資本が流入し、これと結びついた新興財閥(オリガルヒ)が天然ガスやマスメディアといった主要産業を握り、米国クリントン政権と良好な関係にあったエリツィン政権のもとで絶大な影響力をもつに至りました。しかし、欧米諸国との関係が資源収入の流出や政権中枢との汚職といった負の影響をも誘発したことは、1999年に「強いロシア」を掲げるプーチン大統領の登場を促す一因となったのです。
ロシアの反欧米感情は、昨日今日のものではありません。それは近代以降、「洗練された西欧」から科学技術や思想を受け入れながらも、往々にしてその「狡猾さ」に「してやられ」てきたことへの劣等感の裏返しとして発達した「素朴なロシア」の道徳的優越感を大きな背景としました。
ロシアの文豪レフ・トルストイは、その大著『戦争と平和』(1869)において、ナポレオン率いるフランス軍が接近するなかでのロシア軍の敗走、そしてその後のフランス軍の敗走を、個々の登場人物たちの言動を精緻に描く中で、これらの出来事が合理的に計画立てて行われたわけでないことを描写しました。つまり、トルストイの一つのメッセージは、「西欧で重視される合理的、理性的な判断がいかに当てにならないか」でした。
この考え方を発展させると、何かの出来事が発生した原因に関する合理的説明も、人間の合理性をもって社会を構築するという発想も、それらがいかに理論的に精緻であったとしても、全くナンセンスなものとなります。ここに、(ロシア帝国の植民地だったラトビア出身の)英国の政治哲学者アイザイア・バーリンは、合理性、人間の理性、物質的進歩の価値を重視する西欧を批判・拒絶し、これらに対して純朴な農村的美徳が優越すると捉える、反知性主義、スラブ主義の影響を見出しています。「(トルストイは)合理的手段、つまり良い法の施行や科学知識の普及によって社会を向上させることに対して、…嘲弄的でほとんど冷笑的な不信の念を抱いている」(『ハリネズミと狐』, 1997, 岩波書店, p.109.)。
「普遍」に対する反動としての「特殊」
この観点から現代を振り返ったとき、1990年代の経済的に疲弊していたロシアで、市場経済化の大義のもと、天然資源に欧米企業が群がる状況は、確かに「合理的な判断」によるものだったでしょうが、同時にそれに対する軽蔑をロシアに生んだとしても、不思議ではありません(経営状態の思わしくない会社の足元を見て買収するファンド会社は、それが合理的判断に基づいているとしても「ハゲタカ」と呼ばれますが、それと同じです)。そして、やはり欧米諸国が人権保護を強調してコソボ内戦に介入(1999)し、結果的に「民主的な」住民投票でコソボを(ロシアと友好関係の深い)セルビアから独立させたことは、合理的な価値観で世界を構築する取り組みに対するロシアの懐疑を、さらに増幅させたと捉えることに、無理はありません。
この背景のもとでプーチン大統領が就任して以来、ロシアでは知事選挙の取りやめと中央からの知事派遣が実施されるようになるなど中央集権化が進んだ一方、チェチェンなどのムスリムや同性愛者などに対する弾圧は強化されてきました。さらに、新興財閥オリガルヒが相次いで逮捕されてその資産が国有化された他、プーチン政権の暗部を追求していたジャーナリストが相次いで不審な死を遂げるなど、ロシア政府の強権化は明らかです(六辻彰二, 2011, 『世界の独裁者』, 幻冬舎)。しかし、(少なくとも最近の原油価格下落までは)好調な資源輸出による経済成長を背景に、「強いロシア」を標榜するプーチン大統領に対する支持率は総じて60パーセントを超える水準で推移してきました。つまり、欧米諸国が民主主義をグローバルな価値観として唱道すればするほど、ロシアではナショナリズムが高まりやすくなり、それがプーチン大統領への支持に繋がるという、相乗効果が生まれてきたといえるでしょう。
今年初旬からのウクライナでの政変でも、同様の構図はみられました。ウクライナを含む旧ソ連圏は、いわばロシアにとって「裏庭」でしたが、ここに西欧諸国は昨年、EU加盟を視野に入れたパートナーシップ協定を持ち掛けたのです。いわばウクライナが東西の陣取り合戦の場になったわけです。ロシアは買収、威嚇をもって、ウクライナ政府にEU加盟の道をあきらめさせましたが、これに対して親欧米派の抗議デモがエスカレートし、2月22日に親ロシア派のヤヌコーヴィチ大統領は亡命しました。ところが、首都キエフが無政府状態に近づいていた2月11日、米国議会下院は既に、「民主主義に基づき、外国の影響下から抜け出し、独立を達成しようとする抗議デモを支持する」決議を採択していました。
ここで重要なことは、繰り返しになりますが、ウクライナが東西の陣取り合戦の場であった、言い換えれば正/悪で単純に色分けできないものだったということです。そこで「普遍的な価値としての民主主義」を持ち出すことで、米国はウクライナへの関与を正当化するだけでなく、暗黙のうちにロシアを「異端」と扱うことになりました。ここにロシアと、もともとウクライナ国内でウクライナ人と摩擦を抱えていたロシア系人の間で、「弁舌の達者な欧米諸国がウクライナをもっていく」という危機感がピークに達し、従来からのナショナリズムが爆発的に高まったとしても、不思議ではありません。それはちょうど、帝政末期のロシアで、ローマ・カトリックの宣教師が上流階級の貴婦人たちを次々とロシア正教から改宗させる様子を、トルストイが苦々しくみていたのと同じです。ウクライナ危機からは、近代以来「都会的で洗練された西欧にしてやられてきた」ことへの反動としてロシアで蓄積されてきた「純朴な農村的スラブ」としてのナショナリズムが、民主主義を掲げる欧米諸国のアプローチによって加熱した様相をうかがえるといえるでしょう。