衛生を求めて精神衛生を失っている日本 3.11を思い起こし今あるもので賄う姿勢を
本日3月8日付の京都新聞にマスク品切れ「私たちを責めないで」 ドラックストア店員、疲弊する日々という記事が掲載されている。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、衛生状態を保とうと、人々は、トイレットペーパーやマスク購入の行列へと並ぶ。しかし、ドラッグストア前でマスクを争う喧嘩が発生するなど、人々は、精神衛生を失っているかのように見える。
マスクがない時の代用品
マスクを買う行列に並んだ人の中には、「仕事で必要だから」「家の在庫が切れたから」買いに行った人もいるだろう。一方、家にあるのに、在庫がなくなるのが心配で買った人もいると思う。
マスクの欠品が連日報じられるとともに、手作りマスクの作り方を紹介するサイトも登場した。
たとえば、ハンカチなどを製造する川辺株式会社のインスタグラムでは、家にあるハンカチにヘアゴムを通すだけでマスクができる方法を紹介している。縫う必要はない。
筆者が4月号(3月7日発売)で取材を受けた月刊誌の『LEE(リー)』も、マスクがない人へ。縫わなくてOK!「即席ハンカチマスク」の作り方 【新型コロナ対策】という記事を掲載している。
トイレットペーパーがない時には・・・
マスクがない時にはハンカチで代用できるとして、トイレットペーパーがない時にはどうしたらいいだろう?
トイレに直接流すことはできないが、キッチンペーパーやティッシュペーパーで代用できる、新聞紙や不要な衣類で代用可能などと紹介されている。
フィリピンには紙どころか便座も便器もないトイレがあった
筆者は青年海外協力隊(現在の呼称:JICA海外協力隊)時代、フィリピンで暮らしていたが、トイレに紙がないのは当たり前だった。便器の脇に溜め水とひしゃく(手桶)が置いてあり、それで洗って流す方式の家庭がほとんどだった。
もちろん、首都や観光地などにはトイレットペーパーが常備してあるが、そうではない、家庭のトイレに紙はなかった。
なかったのは紙だけではない。
便座がないトイレもあった。
便座がないトイレでどうやって用を足すのか。腰を浮かせて用を足す。
便座がないならまだいい。便器がないトイレもあった。
高速バスの停留所で、トイレ休憩があり、バスが停車した。
お手洗いに行くと、ドアの前で、おじいさんがひしゃくを持って立っている。
中に入ると、便器がない。コンクリートの打ちっぱなしに溝があるだけ。
トイレに入る前におじいさんにお金を払い、用を足したら、おじいさんがひしゃくに汲んだ水で流してくれるという仕組み。
トイレットペーパー?そんなものはない。なにしろ便座もなければ便器もないのだから。ないならないなりに生活していた・・・生活せざるを得なかった。
かといって、途上国の衛生状態を肯定したいわけではない。世界では、8億9,200万人が、今でも屋外排泄を続けており、衛生上、問題がある。SDGsの6番のゴールは、「2030年までに、すべての人々が適切で平等な下水施設と衛生施設にアクセスできることを目指す」と目標を掲げている。
スウェーデン政府は2016年、新製品を買うのでなく修繕を優遇する減税措置を検討
2016年10月、スウェーデン政府は修繕を優遇する減税措置を検討していると発表した。新しいものを求めて次々買うのではなく、「今あるものを修繕して使う」ことを推奨する姿勢を示した。
2016年10月、金融市場・消費者担当大臣のボルンド氏が、J-WaveのDJ、ジョン・カビラ氏の電話取材を受けた。ジョン・カビラ氏は「売り上げ落ちるんじゃないですか?」といった質問をしたところ、ボルンド氏は「そんなことはない。自転車修理も繁盛して人材が足りないくらい。小売店も我々の提案を喜んで受け入れている」と答えている。
衛生的にしようとして精神衛生を損なってはいないか
前述のフィリピンのトイレは、どう考えても衛生的とは言い難い状況だ。日本は、世界の様々な状況に比べれば、総じて衛生的な暮らしができている方ではないだろうか。
現在、滞在しているフィリピンから日本を見ていると、衛生状態を過剰に求めた結果、逆に精神衛生を損ねてしまっているように見える。人々がマスクやトイレットペーパーを買いに走り、一部の消費者が、ドラッグストアの店員さんに罵声を浴びせたり、別の消費者と喧嘩をしたりしている。
マスクとトイレットペーパーが店にない状況に対し、そこまで自分と他人の精神を苛立たせ、疲弊させ、消耗させる必要があるのだろうか。「あるもので賄う」姿勢でいれば、必要以上にギスギスして神経をとがらせる必要はないのではないだろうか。
「あるもので賄う」家庭は食品ロスが出にくい
筆者がテーマにしている食品ロスの分野では、家庭の冷蔵庫がロス発生源になっていることも多い。冷蔵庫があると「今あるもので食事を済ませる」のではなく、「まだあるのに買う」という購買行動をしてしまうからだ。ミニマリストなど、冷蔵庫を持たない生活をしている人は、今あるものを買うことはしない。買うとしても常温保存できる、日持ちのする食品だ。したがって、冷蔵庫を持っていない人の方が、むしろ家庭での食品ロスが発生しにくい。
途上国の家庭は「あるもので賄う」から食品ロスが出にくい
FAO(国際連合食糧農業機関)のレポートでは、世界の食品ロスの出現傾向として、先進国では製造工程から小売、消費者レベルでロスが多く、途上国では家庭ではなく、田畑や港で生産されてから運ばれるまでの過程でロスが出る傾向を報告している。
イラストで示した方がわかりやすいだろう。農林水産省の公式サイトにグローバル・フードバリューチェーン(GFVC)推進官民協議会について書かれている。
途上国は、先頭の「生産」のところでつまずく。前述の通り、食品を運ぶためのコストが出せない、収穫した一次生産品(食品)の品質を保つための冷蔵・冷凍設備がない、などの理由からだ。
一方、われわれのような先進国は、2番目、あるいは3番目以降で食品ロスが発生しやすい傾向にある。特に3番目の流通と4番目の消費の段階だ。背景には欠品が許されない商慣習や、家庭での過剰除去(食べられる部分まで捨ててしまう)、直接廃棄(食べられるのに期限接近などで直接ごみ箱へ捨てる)、過剰調理などがある。
だからこそ、SDGsの12番では「世界の小売・消費レベルでの食料廃棄を半減する」という、先進諸国を念頭に置いた食品ロス削減の数値目表が立てられている。
なぜ途上国の家庭ではロスが出にくいのか。「あるもので賄うから」だ。「賄わざるを得ない」と言ってもいいかもしれない。もちろん「途上国」といっても様々な家庭があるので一律ではないが、FAOのレポートでも、先進国と途上国で食品ロスの出どころが違うことが発表されている。
「今あるもので賄う」姿勢の欠如
「今あるもので賄う」という姿勢は清々しい。
一方、「あるもので賄う」という考え方ではなく、「ないものは、買ってこないとない」と考え、買うことに固執すると、店の前で争ったり、店員さんに心ない言葉をかけることになってしまう。
日本では、常に商品棚に物があり、いつでも欲しい物が買える状態に慣れ過ぎてしまったようだ。いざ物が無くなったときに「あるもので賄う」ことを考えもしないのではないだろうか。
2011年の東日本大震災の時には、物がないことに対する我慢や、物があることへの感謝の気持ちが、今より、あったように思う。
衛生状態を保つのは大事だが、過剰なほどそれを求めて精神衛生を損ねるくらいなら、もう少しおおらかな気持ちで構えることも必要ではないだろうか、と、日本を離れて見て思う。