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【平安時代】日本で初めての“大魔王”?百人一首にも選ばれ風流を愛した崇徳天皇が、なぜそう呼ばれたのか

原田ゆきひろ歴史・文化ライター

昨今、アニメやゲームなどでは“魔王”という肩書きをよく耳にします。この言葉自体は、たとえばシューベルトの歌曲にタイトルとして使われるなど、古くから邪悪な存在を表すワードとして存在していました。

さらに最近では、ドラゴンクエストに登場する“大魔王ゾーマ”のように、強力な悪役のさらに上を行き、魔王をも束ねる大ボスとして“大魔王”という呼称も多く見かけます。

しかしながらこの肩書き、1番最初に呼ばれたのは誰なのでしょうか。フィクションの世界では分かりませんが、史実においての日本初は“崇徳(すとく)天皇”という人物であったと伝わります。

日本の頂点として敬われる天皇の座にあり、しかも本人が読んだ和歌を見れば、どれも繊細で感性豊かなものばかりで、百人一首にも選ばれています。そんな人物が、なぜ大魔王と呼ばれることになってしまったのでしょうか。

うずまく陰謀

ときは平安時代の末期、当時の最高権力者は天皇でしたが、この頃は本人が退位した後も“上皇”の肩書きで政治を動かし続けるケースが、しばしばありました。

後継ぎを、自身の子供など後見人となれる人物を次期天皇に即位させ、いわゆる“院政”を行う形です。

しかし、その時の上皇であった“鳥羽上皇”は、崇徳天皇を嫌煙していました。(理由は権力争い、実は愛人の子だった等の諸説あり)。そこで、とある策略を考えます。

まず鳥羽上皇は自身の子を崇徳天皇の養子として送り「彼に皇位を継承しては?」といった話を持ちかけます。崇徳天皇としては養子とは言え、父子の関係であれば後見人になれるので、それを受け入れます。

ところが、この鳥羽上皇の子は突然「私は崇徳天皇の“弟”になりました」と主張して即位。こうして崇徳天皇は上皇にはなりましたが、在位しているのが子でなく弟では、後見人になれません。

こうして院政を通じて権力を持ち続けるのは鳥羽上皇となり、ワナにはめられた崇徳上皇は実権を失い、ほぼお飾りだけの存在へと、追いやられてしまいました。崇徳上皇は失意のうちに政治への関りを諦め、和歌の世界に没頭したと言われます。

日本中を震撼させた大乱

それから時がたち、1156年。鳥羽上皇の影響下にある後白河天皇が在位の時に、鳥羽上皇が亡くなってしまいます。そして、大きな後ろ盾を失った後白河天皇は思いました。

「まずい。さんざん不遇を受けた崇徳上皇は、我らを恨んでいるに違いない。この機に乗じて、巻き返しを図るやもしれぬ」

こうした思惑に加え、当時の有力な貴族らも内部で権力争いのゴタゴタがあり、それぞれ後白河派崇徳派に分かれて、緊張が高まりました。そして、このとき双方の主戦力として招集されたのが、のちに名を馳せる源氏と平家です。

しかも、どちらの一族が〇〇派という形ではなく、同じ源氏と平家の内部で後白河派と崇徳派に分かれ、いわば家族や親せき同士で、にらみ合う構図となったのです。

そうこうするうち周囲では「崇徳上皇が挙兵する」というウワサが流れ始め、後白河派は崇徳派と見なされた貴族の館に軍を派遣し、差し押さえる事件が起こりました。ちなみに、これら一連の出来事は後白河派が、挑発を目的にあえて行ったという説があります。

崇徳上皇は思いました。「この情勢では遠からず、我らは攻撃されよう。こうなれば本当に、やられる前にやるしかあるまい」。こうして双方の戦端が開かれ、世に言う“保元の乱”が勃発しました。

しかし結果は、後白河派の勝利となり、崇徳上皇は投降して拘束されます。さらに捕らえられた敵方の武将は、同じ一族が処刑(平清盛が叔父の忠正を斬首、源義朝が父の為義を斬首)と言う、残酷きわまりない処遇が課されたのです。

平安時代は、この200年ほど前に平将門の乱が起こるなど、時おり騒乱はあったものの、軍事的に激しい戦いはかなり少なく、日本を治めていた貴族たちの雅な世界観では、血が流されること自体が忌避される風潮もありました。

それが京都の中心で合戦となり、しかも親子や親せき同士で見せしめのような処刑が実行されたことに、民衆も含めた多くの人々が震えあがりました。貴族からも「やりすぎではないか」「人として許されない」などの声も上がったと言います。

同時に、この保元の乱を皮切りに、武力を持つ存在の力が重視され始め、貴族から武士の世へ変わるきっかけが生まれました。

容赦なき処分

さて、それまで武士ならばともかく、高貴な身分の人物は罪を認定されても、過酷な処遇を受けるケースは少なく、かつて同じように上皇VS天皇の騒乱に敗れた平城(へいぜい)上皇も、出家をすることで許されました。(薬子の変)

その上、この平城上皇は旧都の平城京という中心地で、余生を送ることも許されています。

崇徳上皇も、もしかするとそうした前例への期待があったかも知れませんが、四国への流罪が決定してしまいます。現在の感覚では牢屋に入れられたり、孤島へ送られるわけでもないので、そんなに悪くないようにも見えてしまいますが、当時の皇位経験者にとっては厳しい処断で、この事実にも多くの人々が驚きました。

流された崇徳上皇は、もはや京都に戻る望みも断たれ、余生を和歌と仏教への信仰に注いで、心の支えとしました。そして保元の乱の戦死者や自らの家族を悼む想いも込め、数年かけて膨大な写経を行い、せめて京都のお寺へ納めて欲しいと、その経典を送りました。

ところが、それらは拒否され送り返されてしまいました。ここから先の言い伝えは、想像や創作が加わっている可能性も大きいですが・・一説によると後白河天皇は「経典の文字には、呪いが込められているのだろう」と疑い、ビリビリに破かれて返された経典もあったとも言います。

いずれにしても、もはや供養さえも“許さない”というメッセージを送られたことは事実で、想いを全否定された崇徳上皇のショックは、計り知れません。

激昂して「この経典は仏ではなく、魔道に捧げてくれる!」「我、大魔王となり、朝廷の世に災いをもたらさん!」などと叫び、夜叉の様な形相になったと言い伝わります。

恐怖とともに刻まれた“大魔王”

さて、保元の乱に勝利した後白河天皇ですが、その後なぜか近親者が相次いで亡くなります。また世の中では大火事、洪水、飢饉などが発生。また京都では源氏と平氏が全面衝突し(平治の乱)およそ“平安”とは、ほど遠い世情となってしまいました。そして人々は、こんなことをウワサし始めました。

「少し前までそれなりに平和だったのに、いったい何故こんなことに」

「思い返してもみろ、すべては崇徳上皇が追放された辺りからじゃないか」

「これは祟りだ、大魔王と化した崇徳上皇の魔力にちがいない」

その後、真剣にこれを恐れた朝廷は、亡き崇徳上皇に称号を送り“崇徳院”と呼称することで、怨念を鎮めようとしました。

しかし歴史を見れば、そこから源平合戦を経て鎌倉幕府が成立。朝廷は武士から実権を取り戻そうと挙兵しますが(承久の乱)、大敗してしまいます。

それから時代が変わっても世の人々は何か災厄が起こるたびに、“崇徳大魔王”の恐怖を語り継いでいきました。南北朝時代には、歴史の中で無念のなか散って行った権力者の怨霊を、崇徳大魔王が一堂に集め「くっくっ、次はどんな災いを起こしてくれようか」と、策謀を巡らせていたという話まで語られました。

今よりもはるかに神や妖怪が信じられていた時代です、それも昔の日本はとくに“祟り”を恐れる風潮があり、それは何百年も経ち江戸時代が終わるまで、忘れられてはいませんでした。

明治天皇は即位の直前に京都に、白峯(しらみね)神宮という神社を立て、崇徳院の霊に語りかけました。「我々の祖先が、あなたへ酷い仕打ちを行い、たいへん申し訳ありませんでした。京都にあなたのお住まいをご用意しましたので、どうか天下が安らかになるよう、お助け下さい」

ちなみに、この白峯神宮が建つ地は、もともと貴族の間で流行った蹴鞠の、宗家の邸宅があった場所でした。そのため現在では崇徳院の御霊が祀られるとともに、サッカー関係者が必勝祈願に訪れることでも有名になっています。

本当に抱いていた想いは?

なお、ここまで怨霊と見なされての呼称を大魔王としてきましたが、実際の言い伝えでは他にも“大魔縁”や“天狗”など、様々な表現が存在しています。

それにしても、こうまでウワサされた崇徳院の、本当の想いはどのようなものだったのでしょうか。もちろん実際のところは本人にしか分かりませんが、筆者としては怒りと恨みに支配されただけの余生では、なかったのではないかと感じられます。

「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」

(川の流れがはやく、岩にせき止められた急流は2つに分かれる。しかし、いずれはまた1つの流れに合わさるのです。それと同じように、離れ離れになったあなたとも、きっとお会い出来たらと思っています。)

これは百人一首の中でも極めて人気の高い崇徳院の一首ですが、自然への観察力や豊かな感性をもつ人物でなければ、とても浮かばない言葉に感じられます。もちろん無念はありつつも、優しく穏やかに過ごされた一面もあったのではと思えます。

記事では大魔王や祟りといった面も強調してしまいましたが、ただ恐ろしい存在としての扱いをするのではなく、むしろ崇徳院の遺作から風流や、心の豊かさを学べたら最も素晴らしいのではと、そのように感じられます。

歴史・文化ライター

■東京都在住■文化・歴史ライター/取材記者■社会福祉士■古今東西のあらゆる人・モノ・コトを読み解き、分かりやすい表現で書き綴る。趣味は環境音や、世界中の音楽データを集めて聴くこと。

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