テレビ初の天気予報は、初めてテレビ放送が行われた日で気象庁長官自ら解説
初めてのテレビ放送
日本でテレビ放送が始まったのは、NHK東京テレビジョン局が開局した昭和28年(1953年)2月1日のことです。
放送文化研究所の聴取好適時間の調査をもとに、放送時間は1日4時間を原則とし、12時から13時30分までの1時間半と、18時30分から21時までの2時間半に分けての放送となっています。
2月1日は14時から開局にあたっての挨拶や祝辞が放送され、19時15分から20分には、和達清夫中央気象台長(現在の気象庁長官)の話のあと、天気予報が放送されています(表)。
テレビの最初の日であるということで、特に中央気象台長が出演したもので、NHKのスタジオにおいて天気図を前にして天気予報を行っています。
当時、放送に使われた天気図がどれなのかはっきりしていませんが、図のような西高東低の冬型の気圧配置の天気図と思われます。
当時、中国や北朝鮮とは国交がなく、気象電報も全く入電していない状態でした。
このため、天気図には広い気象観測が記入されていない空白地帯があり、予報精度はかなり悪いものでした。
「ひと指千円」という伝説
テレビ放送が始まった頃の気象番組は、昼間はニュースの後の1分間、夜間は19時15分からの5分間の1日2回で、天気図や図表を用いてアナウンサーが行いました。
アナウンサーが読み上げる原稿を書いたのは中央気象台の予報官で、原稿を書いた予報官は放送時間にNHKにゆき、天気図を指さすのが日課でした。
当時の様子を、気象庁天気相談所長や函館海洋気象台(現在の函館地方気象台)長を歴任した大野義輝氏はその著書の中で次のように記しています。
ちなみに、大野義輝氏は、のちに東京オリンピック開幕日の天気予報を担当し、晴天を予報してみごと適中させています。
また、私が気象庁に採用され、最初の赴任地となった函館の台長でした。
テレビにとって、最初から必要な独立したレギュラー番組としてスタートした天気予報は、始めこそ19時頃からの1日1回の放送でしたが、昭和30年(1955年)からは正午を加えた1日に2回にふえています。
そして、昭和32年(1957年)からは7時と放送終了時を加えた1日4回、昭和34年(1959年)からは8時を加えた1日5回と、テレビ放送の充実とともに発展しています。
昭和27年から民間人が天気予報
和達清夫中央気象台長が戦後初めてアメリカに行ったのは、昭和25年(1950年)のことで、最初に関心を持ったのは、日本にはまだなかったテレビだと後に語っています。
そのテレビ画面には、気象台の職員ではない民間人が、天気図を指して解説をし、予報をしていることに興味をひかれ、いずれ日本にもこのような時代がくるのではないかと思ったとのことです。
その後、昭和27年(1952年)に気象業務法ができ、その資格があり許可を受ければ、民間でも限定された範囲で天気予報ができるようになっています。
しかし、台風接近時の台風情報といった防災情報を伝えたのは気象庁の職員でした。
台風が接近すると気象庁講堂が台風情報の発信場所となり、テレビ各局の中継車が気象庁の駐車場に並びました(写真)。
気象庁には各局のケーブル等の放送に使う機材が予め置いてあり、講堂の壁際には各局の放送スペースが設けられました。
そして、予報課長と主任予報官、台風の当番予報官が交替で要請のあった全ての番組に出演しました。
私も予報官時代に何回か出演しましたが、カメラの向こう側には多くの人でごったがえしていました。
また、防音の間仕切りがありませんので、放送時間が重なると、他局の放送音声が入りこみました。
音声を担当していた人は大変だったと思います。
その後、気象庁以外の人が行う天気予報が盛んになり、日本気象協会の森田正光氏(現ウェザーマップ会長)などの気象解説者が人気者となっています。
テレビで民間人による天気予報が盛んになりますが、その流れを決定づけたのは、平成5年(1993年)の気象業務法改正によって気象予報士が誕生したことです(第1回気象予報士試験は、平成6年(1994年)8月28日)。
気象予報士の誕生以降、気象庁講堂から予報官等が出演して台風情報を伝えることはなくなりました。
現在は、予報業務を行うにあたっての技術水準及び信頼性を担保するための技能試験に合格した多くの気象予報士が、テレビを通して多くの人に天気予報や台風情報など、各種の情報を伝えています。
写真の出典:気象庁編集(昭和50年(1975年))、気象百年史、日本気象学会。
図の出典:気象庁「天気図」、加工は国立情報学研究所「デジタル台風」。
表の出典:「日本放送協会放送史編修室(昭和40年(1965年))、日本放送史(下)、日本放送協会」をもとに筆者作成。