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タイトル戦史に刻まれる最短ハイレベル持将棋引き分け 棋王戦第1局、藤井聡太棋王-伊藤匠七段

松本博文将棋ライター
(記事中の画像作成:筆者)

 2月4日。第49期棋王戦コナミグループ杯五番勝負第1局▲藤井聡太棋王(21歳)-△伊藤匠七段(21歳)戦がおこなわれました。

 9時に始まった対局は17時35分、129手で持将棋(引き分け)が成立しました。

 藤井棋王は公式戦初の持将棋を経験。タイトル戦における持将棋は規定により、通

算対局数には1局として数えられます。

棋王戦開幕

 無敵八冠にライバル候補の大器がどう挑むのか。将棋界トップレベル、21歳の若き二人がぶつかる棋王戦五番勝負がいよいよ始まりました。

 対局開始前、藤井棋王は大橋流、伊藤七段は伊藤流で駒を並べていきました。

 開幕に先立ち、まずは先後を決める振り駒がおこなわれます。

森内「それでは振り駒をおこないます。よろしくお願いします」

 立会人の森内俊之九段が声をかけます。記録係の吉田響太三段が白布を広げ、藤井棋王の側の歩を5枚取りました。

吉田「藤井棋王の振り歩先です」

 記録係が手のひらで歩をよく振って、白布の上に投げた結果、表の「歩」が4枚、裏の「と」が1枚出ました。

吉田「歩が4枚出ましたので、藤井棋王の先手番でお願いいたします」

 午前9時。

森内「定刻になりました。藤井棋王の先手番で対局を開始してください」

 森内九段が声をかけると、両対局者は「お願いします」と深く一礼。対局が始まりました。

 藤井棋王は茶碗を手にしてお茶を一服。気息を整えたあと、飛車先の歩を手にして、一つ前に進めました。

 伊藤七段も一呼吸をおき、こちらも飛車の筋の歩を一つ突きます。

 ここまでは昔ながらの、タイトル戦らしいおごそかな光景そのままです。あとはゆったり序盤の駒組が進むのが、かつての流れでした。

 しかし現代は様相が変わっています。コンピュータ将棋(AI)を駆使した深い序盤研究を前提して、事前に用意した手順の通りであればすぐに進め、研究をはずれてからはじめて時間を使うのが、合理的な現代調の戦い方です。

 本局の戦型は角換わり腰掛銀。間合いをはかりあう駒組が続いたあと、機を見て藤井棋王が仕掛け、本格的な戦いが始まります。

藤井「途中までは考えたこともある変化でした」

 両者ともに当然に研究、実戦例ともに豊富な形。普段から将棋をよく観戦している人であれば、すらすらと手が進んでいく点についてはもう、さほど驚きはないかもしれません。

 61手目。藤井棋王は左端三段目に垂らされた歩を強く玉で取ります。早くも中段に玉が上部に進む形になりました。持ち時間4時間のうち、消費時間はわずかに藤井13分、伊藤7分。ここまでは▲千田翔太七段-△羽生善治九段戦(1月18日、B級1組順位戦)という実戦例があります。

 62手目。羽生九段は6筋の歩を突いて比較的相手玉に近いサイドを攻めていきました。伊藤七段は相手玉からは遠い逆サイド、3筋の歩を突きます。藤井攻撃陣の弱点である桂頭を攻めつつ、ここから開拓できれば、伊藤玉も藤井陣に入り込むルートがひらけてきます。

 伊藤七段の作戦選択は相入玉の可能性を視野に入れてのものだったと、次第にはっきりと明らかになっていきます。

持将棋を目指すという新しい姿勢

 将棋はきわめて優れたゲームです。長い間プレイされ続けてきたにも関わらず、その結論はいまだに明らかになっていません。

 対局が始まると、変化無限とも思われる推移を経て、ほとんどの場合、最後はどちらかが勝って決着がつきます。ただし千日手と持将棋という2つの例外があり、そうすると引き分けです。運営の側にとってはイレギュラーな引き分けが生じるのは少々頭の痛い問題ですが、千日手と持将棋が存在することによって、将棋はさらに広く深く面白いものになっていると見る人も多いでしょう。

 若干勝率の低い後手側が、序中盤で千日手を含みに待つ戦略は、現代将棋界では常識化されています。本局はさらに進んで、これまでであれば終盤もつれた末、偶然生じてきた相入玉からの持将棋を、作戦段階から具体的に見据えていた点が新しい。将棋も突き止めていくと、ついにここまで来たのかという感があります。

 本局のような作戦が生まれた背景としては、やはりAIがあまりにも強くなり、それを用いた研究が進んだ点があげられます。

 かつてのAIは入玉模様を苦手としていました。しかしその常識は、いまではすっかり過去のもの。AI同士の対戦ではハイレベルな攻防を繰り広げたあとで、互いに入玉する実戦例が数多く見られるようになりました。

 そして人間の公式戦で採用されている24点法と、AIの競技会で採用されている27点法とでは、わずかにギャップが生じている点が、ここに来て注目されつつありました。

 将棋の初形では大駒(飛、角)を5点、小駒(金、銀、桂、香、歩)を1点としてカウントした場合には、先手、後手、双方ともに27点ずつを持っています。

 双方入玉し、玉がつかまらないことがはっきりしたあと、双方ともに駒数が24点以上あれば合意により引き分け。なければ、ない側を負けとするのが、人間の棋士、女流棋士の公式戦で採用されている24点法です。

 27点法は先手ならば28点、後手ならば27点ある方が勝ちというルールです。「宣言法」という条件を整えることで一方の意思によって必ず決着がつく、不利な後手の側にわずかにアドバンテージを与える、などのメリットがあります。一日に何局も指す人間のアマ大会では、早くから採用され定着してきました。

 AI同士の競技ルールも27点法で、開発者はそこで勝つことを基準において調整をほどこしています。27点法ならば負けかもしれないけれど、24点法ならば引き分けにもちこめる。そうした可能性のある順をAI研究によって探し当てることができれば、どうでしょうか。伊藤七段はそうした鉱脈を見つけたのかもしれません。

相入玉を見据えての攻防

 入玉は、どちらかが狙えばすぐに実現するようなものではありません。やみくもに相手陣に向かっていっても、ただ返り討ちに遭うだけです。トップクラスの棋士同士の対局であればなおさらで、双方が複雑な攻防を経た末にはじめて、入玉の可能性が生じてきます。

 77手目。藤井八冠は飛車取りに香を打ちます。以下、伊藤七段は角、藤井棋王は飛車をそれぞれ取り合いました。形勢はほぼ互角。そして持将棋を見据えた観点であれば、双方ともに5点を取り合って、こちらも五分の取引となります。

伊藤「角換わりからかなり、午前中から早いペースで進んだんですけど。▲9三香と打たれて、飛車角交換になったあたりから、ちょっとそうですね、先手玉が寄るという感じではなくなって。後手としては持将棋を目指す展開になったんですけど。ただ、そうですね。後手玉が入玉するまで時間がかかる展開なので、かなり神経を使いながら指していました」

藤井「こちらの玉が先に上部に行っているのが主張かなというふうに思っていたんですけど。ただ、そうですね。本譜、うまく後手に手厚い陣形を作られてしまったので。ちょっとそうですね。もう少し深い認識が必要だったかなという気がしています」

 82手目、伊藤七段は藤井陣に角を打ち込みます。ここまで進んでも消費時間は藤井26分、伊藤18分。持ち時間40分の朝日杯など比較的早指しの対局でも、これだけ早いペースはそうそうないかもしれません。

 藤井棋王は当たりになっている飛車をどこに逃げるか。ここでようやく手が止まり、52分考えた末に、いちばん遠いところまで移動させました。

藤井「本譜の7九と5九で、迷っていたんですけど。ただ、本譜は、ちょっとそのあと、7九の飛車を押さえ込まれて。ちょっとそうですね。自信のない展開になってしまったので。5九に回って飛車を縦に使っていく筋を見せた方がよかったかなというふうには、少し思っています」

 伊藤七段が角を引き成って馬を作り、藤井棋王が馬取りに金を上がったところで、12時、昼食休憩に入りました。

いよいよ相入玉

 伊藤七段は馬をどこに引くか、主に2つの選択肢がありました。1つは藤井玉に迫る8筋。もう1つは自玉の安全を重視して入玉をサポートする3筋。

 13時、対局が再開され、伊藤七段は後者を選びました。

伊藤「本譜の△3四馬だと、あまり先手玉を寄せる感じではなくなるんですけど。ただそうですね、こちらとしては一応、入玉を目指すというのは予定の方針ではありました。(△8三馬も検討されていた)△8三馬もあるかなとは思ったんですけど。ただ、やっぱり寄せきれないと、形勢を損ねてしまうので、かなりリスクがあるのかと思いました」

 互いにと金を作りあい、いよいよ相入玉が現実的となってきました。AIによる評価値は、少し藤井よしを示しています。しかしこれは前述の通り、相入玉における27点法に基づいたもの。27点法ではよさが見込めても、24点法では引き分けという場面は生じます。

 94手目、伊藤七段は攻防に利く位置に角を打ちます。

藤井「△3六角と打たれて、飛車を5九から使う筋を封じられてしまったので、そのあたりで、むしろ、こちらが持将棋にできるかどうかというような形勢になっているかなと思いました」

 104手目。伊藤七段は馬を相手の龍にぶつけます。藤井棋王は17分考えて交換に応じました。大駒同士の交換ですので、5点をやり取りした計算になります。

 伊藤七段は上部が安全になったのを見て、中段へと玉を押し上げていきます。互いの玉の先には、もう進出をさえぎるものはありません。

 129手目。藤井玉は伊藤陣三段目に達します。伊藤玉はすでに藤井陣の二段目の中。この時点で駒の数は藤井29点、伊藤25点。藤井陣にはいくらか駒が残っていて、伊藤七段の方は駒が増える余地があります。

 少しして、伊藤七段の方から小さな声で、藤井棋王に話しかけました。持将棋の提案です。藤井棋王が小さくうなずきながら「はい」と答え、両者の合意により、17時35分、持将棋が成立しました。

 原則として千日手は即日指し直しですが、持将棋は一局として成立し、このあと同じ場所で、次の対局が指されることはありません。

 対局室に立会人の森内九段が姿を見せたあと、藤井棋王が話しかけます。

藤井「規定はどうなっていますか?」

森内「規定は無勝負ということで、今日は指し直しはおこないませんので」

 両対局者ともにうなずいて、歴史的な一局が幕を閉じました。

藤井「本局は早い段階からけっこう入玉を含みにするような展開になったんですけれど。ちょっとこちらが工夫が足りなくて。結果としてはちょっと、伊藤七段の手のひらの上というか。そういう将棋になってしまったのかなと思っています」

 藤井八冠にこう言わしめたように、伊藤七段の作戦は秀逸だったと言ってよさそうです。少なくとも、若干不利な後手で負けなかったのは大きい。

 先後が替わって伊藤七段先手となる第2局は、2月24日、石川県金沢市・北國新聞会館でおこなわれます。

藤井「第2局まで少し期間が開くので、まずは本局を振り返ってまた、次の対局に向けて準備をしていきたいと思います」

伊藤「次局は先後も決まって、少し間隔も空くということで、しっかりと準備して臨みたいと思います」

 現行形式のタイトル戦番勝負は、1940年の第2期名人戦七番勝負から始まりました。以来、83年と少しの間に、本局を含めて持将棋が成立したのはわずかに14回です。

 そして本局は最も手数が短い。それは決して偶然ではなく、伊藤七段がプランを実現させつつ、両者ともにほぼノーミスで入玉を果たしたからでしょう。そうした意味でも、やはり歴史に残る持将棋と言ってよさそうです。

続く両者の対戦

 事前に収録され、棋王戦第1局と同日に放映されたNHK杯準々決勝における両者の対戦は藤井勝ちでした。

 両者の対戦成績は藤井7連勝のあと、互いに1持将棋(1分)を加えたことになります。

 藤井棋王に押されている伊藤七段としては、ともかくも公式戦で初めて負けなかったわけで、ここが転換点となる可能性もあるかもしれません。

 藤井棋王の今年度成績は40勝6敗1持将棋(勝率0.870)となりました。

 藤井棋王の勝率は依然、史上最高ペースです。

 今年度、藤井棋王は残り最大8勝まであげることができます。8勝であれば2敗まで、7勝以下であれば1敗までで、中原誠五段(現16世名人)が1967年度に記録した史上最高勝率を更新できます。

 伊藤七段の今年度成績は43勝14敗1持将棋(勝率0.754)。対局数(58局)と勝数(43勝)の2部門で全棋士中トップです。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)など。

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