元阪神・玉置隆投手 野球人生のエピローグは「最高に幸せな4年間でした」
年が明けてはや1か月が過ぎ、あす2月1日はプロ野球のキャンプインです。阪神の選手たちも宜野座キャンプ先乗り組が28日に沖縄へ入っての合同自主トレ中。鳴尾浜での新人合同自主トレも30日で打ち上げとなり、きょう安芸キャンプが行われる高知へ移動しました。ことしは開幕が1週間早いので、例年以上に気合いが入る初日となりそうですね。
プロだけでなく社会人も、大学や高校でも、野球選手は年明け早々から始動して、チームでの練習もお正月休みが終わってすぐにスタートしています。彼らはボールを追いかけ始めた子どもの頃から、ずっとそうやって過ごしてきたのでしょう。でも…やがては、その習慣の終わる時がやってくるものです。
元阪神タイガースの玉置隆投手(33)が、昨季限りでユニホームを脱ぎました。小学1年生から26年間の野球人生で、最後は社会人・日本製鉄鹿島(入部時は新日鐵住金鹿島)での4年間。本人がいつも「最高のチーム!」と評していたように、とても幸せな締めくくりだったと思います。鹿島に行って本当によかったですね。もしかすると11年を過ごした阪神時代より、もっともっと熱い時間だったかもしれません。
きょうは小学校時代からの思い出と本人のコメント、そして玉置投手を取り巻く方々の話をご紹介します。なお既に現役選手ではありませんが、あえて“玉置投手”と呼ばせていただくことをご了承ください。
小学校は無欲、中学校は軟式、高校はガチ
隆少年が野球を始めたのは小学1年の時です。3つ上のお兄さんと「一緒にやらされた(笑)」とか。お父さんを交通事故で亡くし、女手ひとつで育てるお母さんにすれば、兄弟が一緒にいてくれたら何より安心で助かったでしょう。まず「プロ野球なんてことはまったく考えていなかったですね。メチャクチャ下手くそやったんで。ポジションは外野とかサードとか。ほんま何の野心もなかった」という小学校低学年時代を過ごします。
ピッチャーは4年生から。転校して別のチームに入ったのがきっかけです。「“球の速いヤツがいる”と、周りで評判になったみたいで。ああ僕の球は速いんやと、その時に知りました。頑張れば、いいところまで行けるのでは?とプロを意識したのも当時からです」。でも中学時代は、経済的なことも考えて学校のクラブに。これが軟式野球で「一緒に軟式をやろうと約束していた松間が、ちゃっかり硬式へ行った!3年間でレベルの差は開きましたねえ」と、のちに高校でチームメイトとなり、キャプテンも務めた小学校からの同級生・松間啓介さんの“裏切り”に苦笑いです。
「プロを目指すなら高校は真剣に野球をやれるところへ」と進んだ市立和歌山商業高校(現在の市立和歌山高校)で、恩師・真鍋忠嗣監督と出会います。「真剣に野球をやりました。中学時代はモヤモヤしていたので、きつい練習がしたかった。体を大きくして知識も増やして、と思っていたから全然しんどくなかったです。厳しさは県内でもトップクラスだったけど楽しかった!」
すぐに注目されたわけではなく、はじめは軟式との差を埋めることにも苦労しますが、やがて2年生からエースとなって力を発揮。2004年11月17日に行われたドラフト会議で阪神の9位指名を受けました。同期には能見篤史投手(27)、岡崎太一選手(21)、橋本健太郎投手(24)、大橋雅法選手(18)、赤松真人選手(22)、高橋勇丞選手(18)、辻本賢人投手(15)、水落暢明投手(19)がいます。※( )内はドラフト当時の年齢。
阪神、そして社会人へ。あるのは感謝のみ
「阪神では11年間、やらせてもらいました。振り返ると、ほんまに子どもやったなあと思いますね。5年目くらいまでは特に。高卒で世間知らずで、コーチにも反発して怒られて。思い出してもペラッペラの11年でしたけど、こんな僕を11年もよく置いてくれたと感謝の気持ちです」。チャンスをつかみかけた時に右ヒジを痛めたことも「今思えば自己管理ができていなかったから。もっと、ちゃんとやっていれば…」と反省。
担当スカウトは畑山俊二さんですね?「あの人がいなければ、高校からプロへというのはなかったと思う。こんな僕を取ってくれて、ありがたかった。地域は違うけど自分と同じ住金で、同じユニホームを着て野球をやってくれて嬉しかったと言ってもらいました」。逆に畑山さんは「阪神にいる時から顔を合わすたびに『何とか畑山さんに恩返し、恩返し』と言ってくれて。あそこまで言ってくれる選手はなかなかいない。辞める時も『すみません、恩返しできずに』って。育成になったり苦しい立場も経験したけど、でも何かの縁で僕と同じ系列の会社に行って活躍して、それは嬉しい限りです」とおっしゃいました。
濃い4年間だったのではないですか?「志半ばというか、プロまで来たけど活躍できず、支配下にもなれず、なかなか満足してユニホームを脱げない子が多い。そんな中でアマチュアだけど機会をもらえて、悔いのない場面で投げて活躍してね。日本選手権は(藤川)球児も見に来てくれていたでしょう?あいつの人間のよさが出ている。そういうヤツよね。だから最後、ああいう形で終わってくれて本当によかった」。本当に、お父さんみたいな言葉です。
また「吉田浩さんにも感謝です。浩さんがいなければ、こんな熱い野球を知ることもできなかったので。生きる道を与えてくれた人です」と続けた玉置投手。同じように阪神から住金鹿島へ行った吉田浩さんも、都市対抗や日本選手権の本戦出場に尽力した玉置投手に毎回、感謝されていましたよね。
日本製鉄鹿島で咲かせた大きな花
玉置投手が新日鐵住金鹿島に入ったのは2016年、横山雄哉投手と石崎剛投手の阪神入団と入れ替わりでした。「ちょうど2年連続でドーム出場(都市対抗と日本選手権)を逃した直後だったんですよ。えらいタイミングで来たなあと思いましたね」と玉置投手が苦笑する通り、彼に与えられた使命は何が何でも本大会に出場すること!中嶋彰一監督が復帰したタイミングとも重なって、チームは目標に向け突っ走ります。
「鹿島の練習は普段からノックの嵐です。強豪校みたいな。そのノックも、喧嘩みたいでヤバかった!みんなヘトヘトでした。それを30歳の僕がやっていたんですよ。人生で一番というくらい走りましたねえ」
そして迎えた入部1年目の2016年6月、都市対抗2次予選の北関東大会・決勝リーグでは、2試合目での先発が決まっていたにもかかわらず1試合目の日立製作所戦にリリーフ登板した玉置投手。もちろん翌日の富士重工業(現SUBARU)戦で予定通り先発して完封勝利を挙げました。108球を投げ10奪三振、わずか2安打で二塁すら踏ませていません。
「あれが一番緊張しました。10年以上は最長で4イニングまでしか投げていなかったのに土壇場で先発して…5回まで0点に抑えて百点満点やから、はよ代えてくれ~と思っていた」と笑いながら「高校以来の完投で“投げられるんだ”と思って、変わりましたね。新しい自分の発見です。次の日も投げたし」
そうなんですよ。翌日の全足利クラブ戦も8回からを抑えて逃げ切り!3年ぶりの都市対抗出場を決め、玉置投手は北関東大会の敢闘賞も受賞しました。その後の都市対抗予選や日本選手権予選でも毎年こんなふうに熱いピッチングを披露し、チームも観客をしびれさせる勝ち方で本大会に出場した鹿島です。
ところが最初のうち、本大会では勝てませんでしたね?「そうなんですよ。出ることが最大目標だったから、気持ちが止まっていたのかも。ドームでは予選の戦いができなかった。2年連続初戦敗退だったので、これはちょっと違うなと思い始めました。出たらOKやったのに、勝てないのか?という雰囲気になって…」
なるほど、周囲の反応も変わってきたわけですね。出るなら勝とうよ!って具合に、期待も大きくなっちゃったのでしょう。「僕らもこのままじゃだめだと思った」そうで、チームは少しずつ変わってきました。日本選手権では2018年、2019年ともベスト4。あと少しでそれも突破できそうな勢いを感じた方も多かったはずです。
昨年の記事を2本貼っておきます。都市対抗出場を決めた試合と、11月の日本選手権について書いたものです。
★<4年連続で決めた都市対抗出場!玉置投手と日本製鉄鹿島の男気>
★<玉置隆投手(日本製鉄鹿島)が野球人生の最後に投げた3試合225球>
「玉置さん、大好きです!」
昨年末、阪神・原口文仁選手(27)が地元の寄居町で開催した野球教室に、同じ深谷彩北リトルシニア出身の1年先輩であるSUBARUの日置翔兼選手(29)が助っ人で参加してくれていました。そこで盛り上がったのは原口選手でなく玉置投手の話。SUBARUと日本製鉄鹿島は同じ北関東地区なので、都市対抗の2次予選や日本選手権の最終予選で必ず対戦する相手ですが…「玉置さんが入ってから勝てていない気がしますね。打てないです。あのチェンジアップは」と日置選手。
そして「補強で鹿島に行ったときは、ものすごいプレッシャーなんですよ。他のチームでは自分の成績にこだわってプレーできるんですけど、鹿島は何とか勝ちたい、貢献したいという気持ちになるので。玉置さんが投げていたら、もう絶対に守りきるぞ!みたいな」と力説でした。
日置選手が鹿島の補強選手として都市対抗に出たのは、玉置投手の初年度だった2016年と最終年の2019年でした。「最初の時は会話がなかったんですよ。玉置さんが言うには、都市対抗が終わったらまた敵チームとして戦わなくてはならないから。でも今回は引退を決めていたから、メチャクチャ話しかけてもらった!いろんな話をしましたよ。玉置さん、大好きです」
“相思相愛”のバッテリー
玉置投手のことが大好きな人は、鹿島にも大勢います。中でも片葺翔太選手(33)は玉置投手と同い年で関西出身のキャッチャー。すぐ意気投合したみたいですね。玉置投手との4年間を振り返ってもらいました。「思い出はいっぱいあって1つに絞れないけど、やっぱり2年前の日立市民球場の試合が印象に残っています」。2017年6月、都市対抗北関東2次予選のSUBARU戦のこと。「終盤に逆転して9回を抑えて、勝った瞬間に走っていって隆に抱きついた!2年連続の東京ドーム出場が決まった試合です。隆が完投してマウンドに集まったのは、この試合だけなので」
入部してからチームに変化はありましたか?「もともとピッチャーと野手は、まあ壁というほどではないけど、飲み会をする時でもピッチャーはピッチャー同士、野手は野手同士になっていたんです。でも隆が来てからピッチャーと野手のコミュニケーションが増えたと思います。まあ玉置と僕のつながりもあるし、あいつも野手を飲みに連れていったりして、チームが1つになったのかもしれません」。もちろん片葺選手もやっていたけど、玉置投手の“太っ腹”にとても助けられたとか。なるほど、男気ですね。と言っていたら、なんだか予想外の方向に話が…。
「野球では毎日一緒ですけど、それ以外でも週一で飲んでいました。外へ行ったり、うちに来たり。あいつの家に泊まったり、うちに泊まったり。ラブラブでしょ?彼女ですよ、僕」と言って楽しそうに笑います。2018年にも引退を考えていた玉置投手ですが、エースだった大貫晋一投手がDeNAに指名されたこともあり延長を決めました。実はその陰に、片葺選手の行動があったそうです。「僕が泣いて引きとめました」。えっ、泣いて?「はい。何とか残ってほしくて。まるでカップルでしょ(笑)」
そして昨年も玉置投手の力投で都市対抗と日本選手権に出場。日本選手権は2年続けてベスト4という成績を収めたわけです。「今回も一応引き留めました。ほんまは続けてほしかったし、あいつもやりたかったと思いますよ。ことしが一番、野球がわかってきたと言っていたので。でも、もう納得しています。自分にも家族がいるから、家族と一緒にいたい気持ちはわかる」
では、贈る言葉をどうぞ。「面と向かって言っていないので照れますが、この機会に。4年間、隆がいてくれたからダブルドームに出場できた。みんな頑張ったけど、あいつがおったからやと自分は一番に思ってる。チームを変えてくれたのも隆やと思ってる。ほんまに感謝しています。隆も、お前と出会って変わったと言ってくれました。今でも泣きそうになるくらいです」
やはり愛に溢れていますね。「今後もつきあいはできるけど、でも会えない日の方が増えてくるんやなあと思ったら…」。泣けてきちゃいますか?「大丈夫です(笑)。それくらい好きやったんですよ、男として」。そんな片葺選手は2019年度の社会人ベストナインに選ばれました。おめでとうございます!満身創痍の状態でチームを引っ張ってきた、そのご褒美でしょう。なお玉置投手に「泣いて引きとめた」件を聞いたところ、かなり話を盛ってあったみたいですね(笑)。それでも「片葺は最高のキャッチャーです!あいつのために続けた1年、とも言えます」とのこと。どこまでも息ぴったりのバッテリーでした。
最後まで信じて任せてくれた監督
昨年11月の社会人日本選手権が終わって1週間後、玉置投手から「最後に監督といい写真が撮れましたよ!」と送られてきたツーショット。日本製鉄鹿島の中嶋彰一監督(53)とクラブハウスで撮ったものです。仕事着姿も貴重ですが、テーブルのずらりと並んだ盾をご覧ください。「日本選手権、都市対抗の本戦出場を決めた時にいただける盾です。1年目のゼロの状態から、この写真で締めくくれたなんて、最高ですね!」と玉置投手。
2人の右側に並ぶのが都市対抗、左側が日本選手権。どちらも見事に4つずつあります。玉置投手が記した鹿島での4ページが、こうやって形として残るのは選手冥利に尽きるでしょう。この写真はシーズン終了後に行われた面談の直後に撮っているので、つまり玉置投手の現役引退が正式に受諾された瞬間ですが、とても満足げな笑顔に見えます。
中嶋監督は日本選手権の準決勝終了後に「玉置さまさまですよ、ここまで来られたのは。玉置なくしてできないことでした。私が監督に復帰して唯一の希望の光で、その光のまんま、この4年間しっかり輝き続けてくれたなあという感じがしています。チームにとっても、いい財産になったと思います。ここまでよく功労してくれたので、彼の意思を尊重しながらやっていきたいですね」と話されました。
監督も本音は引き留めたかったでしょうねと言ったら、玉置投手は「いやーもう、監督は最後まで野球を続ける道を残してくれたんです。悩んでいいぞ、お前が決めろと言ってくださって。ギリギリまで悩んで、やっぱり野球がやりたいと思ったら戻ってこいと。最後まで信じて、任せてくれた。だから逆に、甘えちゃいけないと思いました。本当に素晴らしい、最高の監督です!」と感謝いっぱいのコメント。
鴻池運輸の社員・玉置隆として
玉置投手は日本製鉄鹿島硬式野球部の所属ですが、勤務先は同じ茨城県鹿嶋市にある鴻池運輸株式会社鹿島支店。そういえばユニホームの左袖に『日本製鉄』ではなく『鴻池運輸』と書かれていましたね。東京ドームや京セラドームで背番号30の玉置投手のジャージ着用で応援される、鴻池運輸の社員の方々がものすごく多かったことを思い出します。
入社後しばらくしてから単身生活だったこともあり、いずれは奥さんと2人の娘たちに囲まれて暮らしたい、お母さんやお兄さん、奥さんの家族、友人たちが近くにいる関西で働きたいと考えていたようです。でもすぐに異動せず1年くらいは鹿島支店での仕事だから、その間にまだ野球ができたのではないかと思ったので、未練がましく聞いてみました。
「その時のために、ここで過ごす時間を野球ではなく仕事に費やしたいと思った。関西に戻って“仕事のことを何も知らない”では本末転倒。鹿島支店の人が応援して支えてくれたし、わからないことを聞いたら教えてくれた。関西に帰ったら周りの人を誰も知らないので…。支えてもらった、この環境で仕事を覚えて会社への恩返しをしたい」。つまり、これから自分が歩く道を知っておきたかったんですね。
「鹿島支店で野球をしていた、楽しかった、ではダメなんです。会社員としてきちんと、ちゃんと仕事をしたいと思いました。鹿島でいったい何をしていたの?と言われるようでは申し訳ないので。野球はやりたかったですよ。でも定年まではできない。そう考えた時に、ここで頑張らないと、今やらないと、って。いつかここを出る時に、野球しかしていなかったじゃなく、仕事をちょっとでも覚えた僕でいたい」
社会人としての責任感。それが恩返しになるということでしょう。「鴻池運輸鹿島支店は素晴らしい環境です!ここでどれだけ成長できるか、ですね。優しい人ばかりなんですよ。ほんと環境に感謝しています。バタバタしているのは僕だけで。わからないことばかりで、こんなこと聞くの?というような質問をしても、笑わずに教えてくれる。1つ聞いたら10教えてくれます!」
和歌山応援団は最強でした!
昨季はもう“ラストイヤー”と公言していたし、最後の大会が京セラドーム大阪だったので、玉置投手の地元・和歌山からも大勢の方が応援に来られたのは言うまでもありません。しかもうまい具合に休日や夜の試合だったため、仕事に影響なく観戦できたのも何よりですね。玉置投手自身も「来てくれて応援してくれてありがたかった!そういう機会を作れてよかった。最後に投げるところを見てもらえてよかった」と繰り返しました。
そんな“和歌山応援団”の皆さんにもお話を伺っています。市和商の同級生・森康人さんは「4年もやるとは思わなかったですね。隆が行ってチームが強くなったと言われるのは嬉しいことです。隆って何やろ?いまだにこういうつきあいができて、俺らも応援に行けて、その存在って何やろ?人を変える何かがあるのかなあって常々思いますね。学生時代から親も巻き込んで家族ぐるみのつきあいなので、それがなくなるのは寂しい」
「まだ投げられる。まだ勝てる。その姿を見られないのは寂しいけど、このへんで終わってもいいのかなとも思う。最後の試合が終わった時に『悔いはないか?』って聞いたら『ない』と言っていたので、よかったです。長い野球人生で、俺らも夢を見た。彼が野球をやっているおかげで、楽しませてもらった。隆は希望でした」
次に、お兄さんの友だちである辻本真吾さん。初めて玉置投手本人に会ったのが阪神時代で、支配下選手に戻ったあとのことだったそうです。「知ってはいたけど会ったことがなくて。ある時、僕が近所の子ども2人(中学生と小学生)を連れて行ったら、その子たちにグローブをくれたんです」。そうそう、これも男気でしょう。「それから試合を見に行くようになりました。ただ1軍では投げているとこを見ていないんですけど」
「鹿島に入ってから都市対抗の予選は全部、見に行っていますよ、4年間」。何がすごいって、それだけ見ていて負け試合に遭遇していないことです。「僕もビックリで。行けない時に限って負けるんです。だから無敗のまま終わりました。無敗はまだ続いています」と辻本さん。「おかげで茨城や、いろんなとこへ応援に行けたのでよかったです!とりあえず、ゆっくり休んでほしい」と玉置投手の労をねぎらい、感謝の言葉でした。でも、ことしから少し寂しくなりますね。
誰かのために戦えば、負けないチームができる
玉置投手はいつも、1人でお父さんの分も頑張って支えてくれた「母親のために」と言ってきました。阪神時代もそうです。2013年からの登場曲『親愛なるあなたへ』は、お母さんにささげたもの。今も変わらない?と尋ねたら「そうですね。家族が増えた分、思いも増えました。誰かのために、という気持ちは変わらないです」と答えています。
昨年末、お母さんの光恵さんに玉置投手の26年を振り返っていただいたところ「思い出に残っているのは、阪神で育成選手になっても腐らず頑張っていた姿です」とのこと。それから「進む道に迷った時は、自分自身がワクワクする方を選んでください!」とのメッセージを息子に送られました。お兄さんの清正さんは「阪神で育ててもらい、鹿島で活躍できて、野球人生を最高に楽しんでいると思います」という、これは現役中に聞かせてもらった言葉です。
奥さんのえりさんは、日本選手権が終わった際に涙をこらえて「立派に、多くの素敵な方々に囲まれて区切りをつけられたこと、心から感謝しています。必要とされて終わる。玉置にとって最高の野球人生の終わり方だと私は思います。もう試合がないんだと思うと寂しくなりますが、これからも皆さんにお会いできると信じています。本当にありがとうございました」とコメント。また一緒に鹿島の応援に行きましょうね!
最後はやはり玉置投手本人の言葉で締めくくりましょう。社会人野球の4年間について「4年ともダブルドーム出場というのは満足できる結果ですね。出ることが条件で、それが恩返しであり、僕たちの存在価値だと思っていたので。全部できてよかったです」と振り返り、こう続けています。「覚悟、懸ける思い。それらを持ってマウンドに上がっていた。緊張もプレッシャーもあるけど、すべてを力に変えられたのが大きい。そういう4年間でした」
そんな“玉置隊長”は、若い選手たちに「言葉よりも僕の投げる姿を見て何かを感じてくれていたら」という気持ちでプレーをしていたと言います。「日本製鉄鹿島は本当に熱いチームです。何よりも、人のために戦えるので。だから、うちは強いチームにはならないと思いますよ」。強くならない?「人のためにやるから、強いチームではなく“負けないチーム”だったんです。そこが緩むと弱い時代が来てしまう。下の子に伝えたい。誰かのためにやってほしい。人のためなら負けないチームができる。それを受け継いでいってほしい」
<※印はチーム提供の写真、それ以外は筆者撮影>