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徳川家康が他家に送り込んだ3人の養子とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 今も養子縁組は行われているが、子が多かった戦国時代も同様に行われていた。子だくさんとして知られる徳川家康も、他家に養子を送り込んでいたので、そのうち3人を紹介することにしよう。

◎結城秀康(1574~1607)

 結城秀康は、徳川家康の次男である。長男には信康がいたが、家康から自害を命じられたので、最終的に徳川家の家督は三男の秀忠が継いだ。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い後、秀康は羽柴(豊臣)秀吉の養子になった。実際は、人質としての扱いである。

 天正18年(1590)、秀康は秀吉の命により、結城晴朝の養子となった(このとき秀朝と改名したが、のちに再び秀康に改名)。最初は下総結城(茨城県結城市)を領していたが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後に越前一国を与えられた。秀康の死因は、梅毒であるとの説がある。

結城秀康像。
結城秀康像。写真:イメージマート

◎武田信吉(1583~1603)

 武田信吉は、徳川家康の五男である。天正10年(1582)の本能寺の変後、武田氏旧臣の穴山梅雪は家康と逃亡の途中で、落ち武者狩りによって討たれた。梅雪の死後、穴山家の家督を継いだのは子の勝千代であるが、天正15年(1587)に亡くなった。

 万千代の死後、家康は下山殿(武田氏家臣・秋山虎康の娘)との間に生まれた信吉に武田家の名跡を継がせ、見性院(梅雪の妻)が後見人となった。したがって、信吉は養子というよりも、名跡を継いだことになる。慶長7年(1602)に常陸水戸(茨城県水戸市)に移り、穴山氏旧臣らを家臣に加えたという。

◎松平忠輝(1592~1683)

 松平忠輝は、徳川家康の六男である。慶長3年(1598)、忠輝は五郎八姫(伊達政宗の娘)と縁組を行った。同年、松平康忠の養子となり、長沢松平家の家督を継承したのである。慶長15年(1610)、忠輝は越後高田(新潟県上越市)に約60万石を領した。

 慶長20年(1615)の大坂夏の陣において、忠輝は将軍の2人の旗本を殺害したうえに、戦場に遅参するという大失態を犯したので、翌年に改易となった。処分を受けた忠輝は、伊勢朝熊(三重県伊勢市)、飛騨高山(岐阜県高山市)を転々とし、信濃諏訪(長野県諏訪市)で亡くなったのである。

忠輝の墓がある諏訪市貞松院。
忠輝の墓がある諏訪市貞松院。写真:イメージマート

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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